「神に従う」使徒言行録5章27-42節  2018年9月9日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 「彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。」(使徒言行録5:27)
  使徒たちは大祭司に尋問されると、どのように返答したでしょうか。
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒言行録5:29)
 第一声からしてこれです。今、最高法院に引き出されていることそのものが神の御心ではないと断言し、周囲の度肝を抜きます。もちろん、大祭司が以前から命じていたことは、神の御心に適うものではないから当然、守る必要も無い、とも。
 そこから、自分たちの信仰を告白します。
 「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(使徒言行録530~31)
 イエスはいったい何者なのか。何のためにこの地上に来られ、何のために十字架につけられ、何のために復活させられたのか。それは、何よりもイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため。けれども今、使徒たちの目の前にいるのは、イエスを十字架につけた者たちです。にもかかわらず使徒たちは、イエスがこの地上に来られた目的を「イスラエルの罪を赦すためだ」と断言するのです。
 それは、他ならぬ使徒たち自身が、「罪の赦し」を経験したからでしょう。使徒たちの自信に満ちた言葉や態度は、否定しようのない事実に基づいています。
 「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(使徒言行録5:32)
  この弟子たちの姿から見えてくるものは何でしょう。それは、私たちに必要なのは知識だけではないということです。聖書を読み、言葉を研究し、神についてより豊かな知識を得たい。それは信仰者としては当然のことです。しかし、頭で理解する情報だけではなく、経験も必要だと聖書自身が語ります。あらゆる状況の中で、信仰が私たちに力を与えてくれたという経験が必要なのだ、と。
 けれども、頭でっかちな私たちは、ついつい信仰を知識として捉えてしまいがちです。聖書にこう書いてあったから、牧師がこう言っていたからと頭で信仰を理解しようとしてしまいます。パウロのように劇的な回心体験がないから、余計にそう思ってしまうのかもしれません。
 たとえば、牧師が説教において「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)と語るのと、「『神は愛です』とヨハネの手紙一に書いてある」と語るのとでは、大きな違いがあります。前者は経験を、後者は知識を語っています。説教者は聖書解釈の方法論や神学的知識によってのみ、聖書を解釈するのではありません。自分自身の経験によって解釈し、説教しています。また、逆に言えば、そうでなければ説教などできはしません。こう語ると、「やっぱり先生は違う」という反応が返ってきます。「私たちとは違って、先生は立派な経験をたくさんしている。だから説教を語ることができるのだ」と。しかし、これは根本的に間違っています。神ではなく、人間を見ているに過ぎません。
 大切なことは、何か大きな体験、劇的な体験だけが信仰の経験ではないということです。劇的な回心の経験だけが信仰の経験ではないということです。病気が治る、怪我が治る、元気になる。奇跡が起きることを私たちは期待し、待っています。けれども、それほど劇的な経験はめったに起こりません。だから、私には信仰を語ることなどできはしない、とうそぶくのです。
 しかし、信仰の経験とは、それだけではありません。自分が弱くなった時に、神がその弱さの中でどう働いてくださったのかという経験をも含んでいるのです。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二12:9)
 パウロは神の言葉を聞きました。けれどもこれは、決して弱さが克服されたということそのものを意味しません。成功体験だけが経験ではありません。パウロはしかし、弱さの中でキリストの力を経験したのです。自分の弱さをしっかりと見つめる中で、本当の救いとは何かということを受け止めたのです。
 しかも、この経験は何かの修行によってもたらされたのではありません。十字架で死んだイエスが復活されたという福音を通して、自分の人生の中にそのような神の働きを発見するしかありません。それは苦しいけれど、地道に一つ一つの出来事と向き合うことでしか発見できません。「神に従う」とはそのような生き方なのです。
 とはいえ、一人の人間が経験できることなど高が知れています。もし経験だけが全てだとすれば、それはそれで歪んだ信仰へと導かれてしまうでしょう。毎週の礼拝によって、祈祷会に出席することによって、また、手元にある聖書の解き明かしを読むことによって、知識を得ることもやはり大切です。
 その上で、私たちに求められている生き方は、知識と経験とをバランスよく組み合わせることです。しかも、その知識と経験とが「人間から出たもの」なのか、それとも、「神から出たもの」なのかを判断することが求められています。それは、一朝一夕に答えが出るものではありません。けれども、私たちは毎日をしっかりと生きる中で、その一端を知ることが赦されています。一人で探求するのは辛く、心が折れそうになります。そのために、私たちには共に集う場と時間が与えられています。共に主を主と仰ぐ群れの中で、それぞれの信仰を語り合うことができます。支え合い、助け合い、信仰を分かち合うことを通して、神の恵み、神の力が少しずつ見えてくるのではないでしょうか。
 不安はあるでしょう。しかし、その中でただ神を見つめながらそれぞれの知識と経験を分かち合い、本当の信仰を、本当の愛を見出していきましょう。しっかりと神に従って生きていきましょう。