ためらわないで 使徒言行録11章4-18節  2019年7月14日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 当たり前のことですが、神の福音は、人間の限界に閉じ込められるものではありません。それは単に、神学的な議論に留まりません。一人の人間の、実際の行動にまで表れてくるものでしょう。たとえば、異邦人の救いの可能性を認めるとすれば、それは、これまでタブー視されていた問題にまで踏み込むことになります。具体的には、穢れたものを食することができるのか、また異邦人と共に食事をすることができるのかという問題に踏み込んできます。
 ペトロが見た幻は、律法において穢れたものと定められていた食べ物を食べるように、と勧めるものでした。それは、ある文化、ある風習の中で育てられた者にとって、大きなタブーへの挑戦です。しかしそれは、主観的に乗り越えるのが難しい、抵抗感を持つような行為であったとしても、「ある文化、風習におけるタブー」にすぎないのです。他の文化の枠組みにおいてはそのタブーは存在すらしません。もちろん、それらを闇雲に取り払えばよいとは思いません。外部から無理に取り払うものでもありません。大切にしている人が大切にし続ければ良いのは当然のことです。
 けれども、ここでペトロはそれを乗り越えることを求められています。乗り越えていくことこそが神の導きでした。だとすれば、ペトロはなんとしてもそれを乗り越えなければなりません。しかし、彼自身の思い、彼自身の力では難しい。そんなペトロがタブーを乗り越えていきます。ペトロの経験したことによれば、それを乗り越えさせたのが「霊」の力でした。
 「すると、〝霊〟がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。」(使徒言行録11:12)
 霊はペトロに働きかけ、ペトロはタブーを乗り越えていきます。新しい神の次元で生き始めます。そればかりでなく、霊に導かれてペトロが出かけていった先で、ペトロが出会う人々にも霊が働きかけています。
 では、霊が変えたのは何だったのでしょう。
 使徒言行録にはあちこちに「異邦人にも」「異邦人をも」という表現が見られます。ここにつけられた助詞、「にも」「をも」に含まれた思いとはなんでしょう。ある種の思い上がりがあることは確かです。しかし、この言葉は決して、異邦人自身に問題や限界がある、と言いたいのではありません。また、その限界を超える福音のすばらしさだけを言いたいのでもありません。むしろ、福音を伝えるユダヤ人の中にその限界があったことを指し示しているのではないでしょうか。その限界とは、自分たちは割礼を受けているから救われる、つまり、自分「だけは」救われている安心という限界でした。
 「「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」(使徒言行録11:18)
 ここで、実際に悔い改めたのは誰でしょう。それは、自らの限界に福音を閉じ込めようとしたユダヤ人であり、語るペトロであったのではないでしょうか。
 『ガイアの夜明け』(テレビ東京)という番組があります。「我らが創る!新たな〝しごと〟」というサブタイトルがつけられた回がありました。そのテーマは、障がい者雇用。番組の中で、こんな言葉がありました。「障がい者雇用のために会社を立ち上げたが、『お涙ちょうだいですか』と言われた。障がい者が作ることは事実だけれど、そこに『価値』がなければならない。彼ら『にも』できる仕事ではなく、彼ら『だからこそ』できる仕事が求められている。自分はそこに気づいていなかった。そこに気づいたとき、新たな視野が広がり、新たな働きが見えてきた」と。目の前の障がい者が変われば良くなると思っていたけれど、実際に変えられたのはいわゆる健常者の方でした。
 同様に、変えられたのは、異邦人ではなくペトロでした。悔い改めたのは、異邦人ではなくペトロだったのです。
 思い返せば、ペンテコステの出来事を通して福音を受け入れたユダヤ人は、その救いが民族的・宗教的隔たりを超えて、ユダヤ人以外の人にも及ぶことを経験したはずでした。その福音の内容とその方向性から言えば、それは当然のことであったかもしれません。しかし、それは当時の人たちにとっては受け入れがたいことだったことも事実です。神と人間との隔たりを超えて与えられた救いに与りながらも、その福音を自分の中にある隔たりを超えて伝えることに躊躇を覚えました。その可能性を想像することさえためらってしまうのは、悲しい現実です。一つしか答えを持たない人間は、排他的、排外的になります。他者を受け入れることができず、救いの喜びを分かち合うことができません。だから、エルサレムの人々はペトロを非難したのでしょう。そのようなユダヤ人に、かつては彼らを代表していたペトロに、聖霊が働きかけたのです。
 「すると、〝霊〟がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。」(使徒言行録11:12)
 霊はペトロに働きかけ、ペトロは自分の力では乗り越えることのできなかったタブーを乗り越えました。今、エルサレムでペトロと対峙している使徒たち、兄弟たちにも働きかけています。そしてそれは、私たちの目の前にいる一人一人も同じでしょう。
 神の福音に限界はありません。人間が努力して悟りを開き、救いに至るのではありません。神が、人間と神との隔たりを超えて、ご自分をイエス・キリストにおいて啓示されました。その事実によって人間は救いに与ることができます。神と人との隔たりを超えた福音は、当然、人間の世界においても様々な隔たりを超えていく力を持つでしょう。私たちの前にある隔たりも必ず乗り越えられるはずです。ですから、私たちも自分たちに働きかける霊の力を信じましょう。霊の語りかけに耳を傾けましょう。そして、語りかけに応えて、全ての人と共に歩んで参りましょう。 


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