「惜しみなく」コリントの信徒への手紙第Ⅱ9:6-15節  2018年9月9日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 私たちは神の豊かさの中に招かれています。それは一般的な、社会的、金銭的豊かさとは必ずしも一致しませんが、私たちは神によって守られ、愛されるという豊かさの中に今、招かれています。しかもその愛は、惜しむことなく注ぎ続けられているのです。
 その神に感謝するにはどうすればよいでしょうか。単純に「ありがとう」と言うだけなら、日常的に行っています。祈りを通して、神に感謝しています。しかし、それだけでは足りないように思うのです。
 神の恵みは奨学金と似ています。奨学金は「学業に励むために働く時間を短くすることを奨励する」お金です。ですから、そのために用いないのであれば、返さなければなりません。さらに遊ぶお金が欲しいから、とアルバイトに励み、学業をおろそかにすることなど言語道断です。その奨学金に感謝するとすればどうでしょう。単に「ありがとう」という言葉だけを贈ってもよいのですが、奨学金のおかげで学業に専念することができたという証明をつけて感謝を伝えれば、よりいっそう相手への感謝の気持ちが伝わるでしょう。
 それと同じことが、神から与えられた全てのものへの感謝にも当てはまるのではないでしょうか。神は惜しまず、私たちに全てのものを与えてくださっています。それと同じように、私たちも与えられている全てのものを惜しまずに施すことが求められています。あなたから与えられたものを「正しく用いることができました」と神に報告し、また次の施しを実行する。この繰り返しこそが主への感謝に他ならないのです。
 「施す」という言葉を見れば、傲慢に思うかもしれません。自分に与えられているもののほんの一部を渋々差し出す状況を想定されるかもしれません。また、余っている分を分け与えると考えるかもしれません。
 しかし、ここで言う「施す」はそのどちらでもありません。神によって与えられたものをその「御用」のために用いること、それが「施す」ということです。だから、当然のこととして、何か利益を求めようとして他者のために何かを為すというものであってはならなりません。こうすればいずれ何か見返りがあるかもしれないなどという浅はかな思いから為すものでもありません。
 それゆえ、仮に全く同じものが献げられたとしても、その献げ物が惜しみながら出されたとするならば、そこに熱意やエネルギーはあるでしょうか。集う人皆が嫌々、渋々出し惜しみしながら献げている姿はどこかむなしさを感じます。おそらく、その集まりはたくさんのものに溢れていたとしても、それを生かして前へ進むことはほとんどないでしょう。そして、その惜しむ心の内には、神への感謝もないでしょう。
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7:12)
 自分がされて嬉しいこと、喜ばしいことを積極的に行いなさい。疲れている人を見れば共に重荷を分かち合い、悲しんでいる人がいればそっと寄り添う。イエスが弱い者、小さくされた者たちと共におられようとしたように、私たちもまたそのように歩みたいと願います。それは強い者の傲慢さではなく、同じ罪人としての共感とでも言うべきものです。自分の弱さを認め、主にある兄弟姉妹として歩む中でその行いは自然と生まれてくるのです。
  毎日の生活の中で、私たちは本当に多くのものを神さまから受けとっています。その受けとった恵みを広く他者に分け与えることが求められています。献げるものは一人一人違うでしょう。お金、労働、精神的なもの、頭を使うこと、はたまた、時間そのもの。私たちに与えられているもの全ては、神のために用いることができる、用いられなければならないのです。礼拝における献金もまた、その一つでしょう。
  礼拝の時、献げられる献金は、確かに「神さまから与えられた恵みの一部」に過ぎません。しかしそれは「私たち」と切り離された、何か別の「モノ」ではありません。私たち自身がそこに献げられているのです。そして、私たちは祈ります。「どうかこの献げ物を御用のためにお使いください」。そこに置かれている「お金」だけが、神のため、教会のために用いられるのではありません。そこにつながっている「私たち」そのものが聖なるものとされ、「主の御用」のために用いられるのです
  私たちには本当に多くの恵みが与えられています。それを惜しみなく分け与え、感謝しましょう。全財産の半分だけ差し出して、さもそれが全てであるかのように振る舞っていたアナニアのようであってはなりません。わずか2レプタではあるけれど、自分の全財産を献げたやもめのように、私たちもまた、持てる全てを隣人のために、神のために惜しみなく用いましょう。それこそが、惜しみなく全てを私たちに与えてくださる神の愛に感謝し、その愛に応えることとなるのです。