「あなたはわたしの愛する子」ルカ3章15-22節  2019年1月6日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 不安になればなるほど、何かに頼りたくなります。
 イスラエルの民衆は、政治的権力者に自分たちの希望を見出そうとしていました。あるいは、ユダヤ教権力者に象徴される、自分たちの選民性に希望を抱いていたかもしれません。もしくは、そのどちらにも失望していたとも言えるでしょう。それはまさに、現代の抱える問題と同じです。「誰がなっても同じだ」、「他に変わる人がいない」、どちらも諦めから出る言葉です。しかし、期待するのは無駄だと思いつつもなお、彼らは期待していました。既存の力なのか、それとも既存の力ではない「何か」を求めていたのか。いずれにせよ、彼らは自分たちの「外」に期待していました。
 そのような民衆の様々な期待の中で、イエスは洗礼を受けられます。けれども、イエスの登場は大々的で派手なものではありません。イエスはいつの間にか、民衆の中におられた。民衆の内側から、民衆と共に歩もうとされる姿がそこにあります。ここに、民衆の期待に対する、ルカによる福音書のメッセージがはっきりと現れています。それは、崇高な位置にある皇帝や大祭司など、既存の勢力の中に救い主はおられないということです。
 これは、イエスを礼拝した博士たちの姿勢と重なっています。博士たちは当初、「ユダヤ人の王」という肩書きを求めてユダヤへやってきました。しかし、ヘロデの宮殿で救い主を見出すことはありませんでした。そこで彼らが気づかされたのは、真の救い主とは「肩書き」や「権威」という自分が求める「力」ではないということでした。そして、博士たちは「幼子」と出会い、私たちのただ中に来られた神の子を礼拝して帰って行きました。
 神の子とは、民衆から遠く離れた存在ではあり得ません。だから神の子は、宮殿ではなく馬小屋にひっそりとお生まれになりました。人々がその罪を洗い落とす洗礼の川に、同じようにその身を浸し、その罪のまっただ中に立たれたのです。
 ここで言われている神の子とは、単なる尊称ではありません。神の子とは「全ての人を支配する王」という意味です。傍目にはみすぼらしく、罪にまみれたイエスこそが、「全ての人を支配する王」だと宣言しています。既存の価値観からすれば、とても「王」とは思えません。ルカによる福音書が伝えたいのは、イエスは既存勢力に取って代わるために来られたのではないということです。人々を支配し、皇帝や大祭司の位置を奪うために来られたのでもないということです。救い主イエスは、人々と同じように罪の真ん中に立ち、その罪からの解放を説き、新しい生き方を示すために来られたのです。
 ところで、私たちもまたイエスと同じように洗礼を受けます。確かに、私たちが受ける洗礼には、これまでのしがらみを切り捨て、新しい生き方へと縛るという意味があります。しかしそれは、新しいくびきに縛られ、新しい主人に支配される息苦しい歩みを促すものではありません。むしろ、縛られていることに気づかないほど大きな解放の喜びの中に送り出されるものです。
 言い換えると、私たちはイエス・キリストに縛られることによって、本当の自由を得ることができるということです。それは、嫌々従う生き方ではなく、積極的について行く生き方です。高圧的な支配者に従属するのではなく、私たちを底辺から支えてくださる方について行こう、一緒に歩こうという生き方なのです。
 繰り返しになりますが、洗礼には、私たちの汚れ=穢れ=罪を洗い流すというイメージがあります。確かにその一面はあるでしょう。しかし、洗礼が期待する歩みとは、洗濯された服を再び汚さないように生きることではありません。「絶対に汚してはならない」と監視される、そのような生き方は窮屈です。汚れを避け、危険な場所には近づかない歩み。それは、傍目には清潔で、清純な歩みのように見えるかもしれません。けれどもそれは、全てから逃げ出し、神の前からも逃げ出した生き方に過ぎないのです。
 イエスが洗礼を受けられたということは、そのような意味ではないことはもう明らかでしょう。洗礼を受けられたイエスは、誰もいない荒れ野に再び退かれ、誰にも会わないようにされたでしょうか。自分を穢す可能性のある全てを遠ざけられたでしょうか。その答えは否です。洗礼を受けられたイエスが積極的に向かわれた場所、それは、誰も近づこうとしなかった汚れた場所でした。自分で自分を悪い方向へと縛り付けている人々のところでした。そのただ中にイエスは飛び込み、一人一人と共に歩もうとされます。そのイエスこそが「わたしの愛する子」として神に讃えられているのです。
 神に従い、イエスに従って歩もうとする私たちもまた、神に愛された一人です。「あなたはわたしの愛する子」(ルカによる福音書3:22)の「あなた」とは、イエスただ一人を指し示すものではありません。神に結ばれ、神に愛される一人一人が「あなた」です。そんな「あなた」は、この1年の初めに当たって、どのような生き方を選ぶのでしょうか。どのように生きることが、神の目にふさわしいと考えるのでしょうか。すでにその方向は指し示されています。「外」に期待するのではなく、自分自身の「内」に働く神と共に歩むこと。まずは自分自身と向き合い、そして神と向き合う、そのような毎日を紡いで参りましょう。