主だ ヨハネによる福音書21章1-14節  2020年4月26日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 失意のうちに故郷ガリラヤに戻った弟子たちは再び漁に出ることにしました。でも、「何もとれなかった」(ヨハネによる福音書21:3)。本来、夜は漁にもっとも適した時間です。しかし、主が共におられないところでは、人間の働きは実を結びません。暗闇の中で途方に暮れる弟子たちの姿が目に浮かぶようです。
 聖書はこう続きます。「既に夜が明けた」(ヨハネによる福音書21:4)。弟子たちは闇の中にいると思っていますが、実は既に夜が明けています。そして、既にイエスはそこにおられるのです。しかし、徒労だけが残っている弟子たちはまだ気づいていません。エマオ途上の弟子たちと同様、「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカによる福音書24:16)のです。
 イエスは問われます。「子たちよ、何か食べる物があるか」(ヨハネによる福音書21:5)。イエスは全てを知っておられます。ですから、自分の困難や困窮を隠してやせ我慢をする必要はありません。なりふり構わず、自分の問題を主に告白すれば良いのです。
  するとイエスは舟の右側に網を打つように命じられました。結果、信じられないほどの魚が捕れます。その時、「イエスの愛しておられたあの弟子」が言います。「主だ」(ヨハネによる福音書21:7)。彼は自分の見たまま、自分の経験したままを言葉にしました。主の助けなくして弟子たちの歩みはない。わかりきっていたはずのことが改めて明らかにされます。
 自分自身の力で何かをしようとする時、人は当然、自分自身しか見つめていません。「何とかして自分が」と思うあまり、視界に入っているものに意識が向かないのです。それがたとえ自分を助けてくれる主であったとしても、です。既に夜は明けているのに、自分の周囲だけ暗闇だと思いこんでいます。そこでもがいています。
  新型コロナウイルスが蔓延し、今、私たちの社会は不安の中にあります。共に集うことのできない辛さは不安をさらに増大させます。その中にあって、私たちも弟子たち同様、自分の周囲だけ暗闇だと思い込んでいないでしょうか。
 今こそ目を上げましょう。闇の中で徒労だけを感じる時、私たちの視線の先にすでにおられる主の姿を見ましょう。そして、やはりそこにいてくださったのだとの感謝をもって、力強く宣言しましょう。「主だ」と。


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