「相続財産は我々のもの」ルカ20章9-19節  2019年4月7日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 スポーツマンシップという言葉があります。スポーツやゲームの世界で使われる言葉ですが、定められたルール以上にフェアに戦おうとする姿勢のことを言います。その対義語が、ゲームマンシップです。そもそも「最低限これだけはやってはならない」ことがゲームのルールですが、その抜け道を探して、どんな手を使ってでも勝利を得ようとする戦い方のことを言います。
 これはゲームの世界の話ですが、私たちの暮らすこの社会も、ゲームマンシップが横行しているように思えます。法律にさえ引っかからなければ、何をやってもよいのだという風潮があります。何でも自分が中心で、自分の思うとおりにならなければ嫌だと思う、そんな社会です。また、自分の都合がよければ何でもよくて、都合の悪いことはなくしてしまおうとする社会でもあります。
 その中にあって人々は、自分の力だけが頼りになると思っています。自分ががんばってたくさん稼いで、この世の春を謳歌しようとします。そのためには、他人を蹴落とすことなど平気です。自分だけが正しく、他人はいつも間違っていると思っているのです。
 いわゆる「ぶどう園と農夫」のたとえ話に出てくる農夫たちも、ゲームマンシップに則って、行動しているように思えます。彼らは、立派なぶどう園を手に入れるために、跡取り息子を殺してしまいます。自分たちの力でこのぶどう園を開拓したと思っていましたから、今までがんばって働いてきた自分たちではなく、後からのこのこやってきた跡取り息子に全てを任せるなど、許せなかったのでしょう。
 「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」(ルカによる福音書20:14)
  主人の方が間違っているのだから、我々は自分の力を行使して、自分の権利を獲得していくのだ。それが、彼らの信じる正しさでした。
 自分の信じるものだけが正しいと感じている時、人は他人の言葉に耳を傾けようとはしません。イエスを目の前にした人々も同じでした。自分が一所懸命にがんばって、神が与えてくださったルール=律法を一つ残らず守ることが、もっとも成功する=救いを得る方法だと信じていました。だから、まだ救いが与えられないと嘆き、努力が足りないのだと自分を責め、少しでもたくさん、少しでも早く救いを得ようとがんばっていたのです。
  その彼らが、なぜイエスを否定するのでしょうか。イエスは言われます。「神が与えたルールを守ることがすなわち、救いにつながるのではない。ルールと向き合うのではなく、神と向き合わなければ救いは与えられない。」この言葉は彼らを打ちのめしました。それまでの人生を全て否定されたような気がしたのでしょう。
 「そうだ、自分たちの方が正しいのだ。ルールを守ることこそが大切だ。」それが彼らの出した結論です。ルールを守るために、邪魔する者は排除しなければなりません。そして、最も簡単に相手を否定する方法が十字架でした。裁判にかけ、ルールに則って、自分の手を汚さずに、この地上からその相手を葬ってしまうことができるのです。目の前からいなくなれば、イエスの言葉によって引き起こされる不安な現実と戦う必要もなくなります。そして何より、自分の正しさも証明できるのです。
 イエスは裁判によって裁かれ、十字架へとつけられます。この生き方こそ、スポーツマンシップの現れでしょう。そして、その結果もたらされた十字架上での死は、一見すると、生の死への敗北に見えます。しかし、イエスの復活によってこの事実は逆転します。それは、愚直なまでに他者のために生きた、その生涯を「良し」とするものです。その歩みこそが人間の歩みだという証です。世の中からはじき出されたもの、必要ないと思われたものが、実は神の救いの中心に置かれていたことが明らかになるのです。
 農夫たちは自分の利益を守ろうとするあまり、やってはならないことまでやってしまいました。これまで通り、与えられているものに対して精一杯応答していれば、それで十分だったはずでした。それを自ら手放してしまったのです。他人の相続財産は、無理矢理奪い取ったとしても、究極的には自分のものになどなりはしません。それがわかっているはずなのに、目の前のことに囚われて、彼らは跡取り息子を殺してしまい、結果、それまで大切に耕してきたぶどう園からその命ごと追放されることになりました。
 神からの救いも同じことが言えるでしょう。救いは努力によってつかみ取るようなものではなく、神から与えられるものなのです。その前提を忘れて、目の前にある邪魔者を排除しようとした時、イエスの敵対者たちは救いから漏れ出てしまうことになりました。
 イエスと共に歩み、イエスと共に神と向き合う時、イエスが相続される財産は、私たちもまた共に受け継ぐ財産となります。自分の力で手に入れようとあくせくするのではなく、神に生かされている一人として、その財産を共に用いること。この当然のことに気づく時、私たちは自分の努力で救いをつかみ取ろうとする姿勢から解放されます。そしてその時、私たちは本当の意味で、「相続財産は我々のもの」と胸を張ることができるようになります。神の救いの中にいる一人として、本当の意味で安心して、その託された財産を次の世代のために用いることができるようになるのです。


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