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「たとえを用いて話す」マタイ13章10-17節  2017年2月5日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 福音書にはイエスが語られたいろいろなたとえ話が伝えられています。たとえは福音をわかりやすく人々に伝えるもの、私たちはそのように考えがちです。しかし、この場面は違います。
 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。……だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」(マタイによる福音書13:11-13)
 イエスは弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と言われます。しかしこれは、「弟子」だから、神の言葉を自動的に理解する特権が与えられている、という意味ではないでしょう。「あなたがた」であれ、「あの人たち」であれ、私たちが神の言葉、天の国の秘密を、何もせず、ただこのままの姿で聞き取ることができる、理解することができるとは思えません。
 また、この言葉を聞いて憤る者もあるでしょう。「あなたがた」と「あの人たち」との間にはどれほどの違いがあるというのか。なぜ全ての人にそれは許されていないのか。マタイは神の恵みの受け手を差別するのか。教会だけが救われるとでも言うのか、と。
 しかし、私たちは本当に「あなたがた」なのでしょうか。「あの人たち」に自分が含まれないと誰が保証するのでしょうか。「持っている人」のつもりになっているだけなのではないでしょうか。「見て」「聞いて」「理解」しているつもりになっているだけなのではないでしょうか。
 人間には「わかっていることしかわからない」という傾向があります。より正確には、「わかりたいと思っていることしかわかろうとしない」。信仰に関しても同じです。神の言葉を「自分のわかる範囲内でしかわかろうとしない」。さらには、「自分のわかる範囲にまで割引きしてわかったつもりになる」ことが往々にしてあります。
 天の国の秘密を明かすイエスの「たとえ」を聞いても、心を閉ざしている群衆には悟ることができず、それは「謎」となりました。しかし、弟子たちはイエスを見ています。その真理の言葉を聞いています。そこから天の国の奥義を悟ります。そして、ますますイエスに結ばれていくのです。
 この違いはどこにあるのでしょうか。それは、聞き手が「天の国の秘密を悟ること」へと開かれているかどうかです。これは人間の努力によるものではありません。むしろ、神の恵みによります。だから、「悟ることが許されている」(マタイによる福音書13:11)と表現されているのです。
 ですから、改めて「あなたがた」と「あの人たち」とに目を向けましょう。「あなたがた」とは、それに値しない者であるにもかかわらず、神の愛によって「与えられている」者であり、「許されている」者にほかなりません。「見ても」「聞いても」「理解できない」はずの「あの人たち」と同じ者が、です。
 「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイによる福音書13:17)
 そして、誰もが憧れ、誰もが期待したにもかかわらず得られなかったものを見させられているから、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイによる福音書13:16)と言われているのです。
 その意味で、イエスのたとえは諸刃の剣です。神の国の真理はある部分で非常に厳しい面を持っています。イエスの言葉は直接的な普遍性を持つと同時に、ある種の隠蔽された真実を持っています。
 「耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13:9)
 イエスのたとえは「耳のある者」、つまり聞くことを欲し、その言葉によって生かされる人々によって聞かれなければなりません。彼らがその言葉を受け止め、自分の血肉とし、その言葉に生かされていく時、イエスのたとえはより深い意味での普遍性を示します。聞く者がたとえ話の主人公に同化することによって、一般化され普遍化されていきます。そして、具体的で、特殊的で、人格的であるそれぞれの出来事を通して、神の国の真理はこの地上に広がっていくのです。
 「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。」(マタイによる福音書13:13)
 私たちは本当の意味で「あなたがた」になりたいと思います。イエスの言葉をしっかり聞き、たとえに秘められた奥深い意義を受け止め、イエスの愛と思いに生きる一人になりたいのです。すでに私たちに種は蒔かれています。その種をしっかりと育てながら歩み出しましょう。御言葉に養われる一人であることを証ししましょう。ここに生かされている一人として、力強い一歩を踏み出していきましょう。


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