いかに美しいことか イザヤ書52章1-10節  2019年12月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 教会暦(教会の1年間のスケジュール)は、その歩みの初めを「待つ」ことと定めています。これは少し奇妙で、珍しいことではないでしょうか。わかりやすさから言えば、イエスの誕生の時、救い主であるイエスが地上に来られた時(=クリスマス)をその初めとする方が良いのではないでしょうか。確かにそれはその通りだとも思えます。
 ところが、教会の暦は決してその一線を譲りません。主が来られるのを待ち望むことから始めるのです。考えてみれば、私たちは主が再び来られること、主の再臨を待ち続けています。その意味で、私たちの信仰の歩みとはいつも「待ち続ける」ことに他ならないのです。私たちの毎日はまさに「アドヴェント」そのものです。そのアドヴェントを暦の初めとするというのは、意味深長です。いつも「心から待ち続けることのできていない」私たちに、「せめてこの期間だけは、『待ち望んでいる』という事実を思い出せ」と言われているようでもあります。「人の振り見て我が振り直せ」。待ち望んでいる人たちの姿に自分たちを見よ、と。
 今、イザヤの前には、救いを待ち望んでいる人々がいます。国を追われ、故郷を追われ、完全な自由もなく、遠くの空の下にとどめられている人々です。
 彼らに向かってイザヤは民の解放とエルサレムの贖いの日を語ります。「あなたたちの神がシオンに戻った。あなたの神がエルサレムの王となった」。そのように告知する使者によって、人々が、神の名と臨在を知る日が来ることが預言されます。遠くから呼ばわる使者の声は、町の城壁の上で目をこらす見張りの叫びとなり、その叫びを聞いた人々の喜びの声へとつながっていきます。そして、使者はエルサレムだけでなく、山々を廻ってシオンの町々に良い知らせを伝えます。イザヤの視野はさらに広がっていきます。国境を越えて、全ての人が恵みの知らせを聞くのだ。神の救いの業が実現する様子を目の当たりにするのだ、と。
 絶望の中にある人々に向かって語る「平和」「恵み」「救い」の知らせは、慰めであり、励ましであり、力です。今はまだ困難のただ中にあっても、その困難、苦境が永遠に続くものではないことを知ることによって、今を耐え抜く力が与えられるからです。
 もちろん、このような真の平和を告げることが、いつも歓迎されたわけではありません。戦争のただ中にあっては、平和を告げることはタブーだったでしょう。支配者はその言葉を押し殺そうとしたでしょう。自分にとって都合のよい言葉だけを選び、都合の悪い言葉は抹殺しようとするのがこの世の成功者です。皆が一様に苦しんでいるこの時代にあってもなお、「自分だけが」と主張します。
 しかし、その中でなお語られる真実の言葉、命がけの言葉こそが大切なのです。それを伝えてくれる者があることが大切なのです。
 「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ書52:7)
 この言葉を耳にした私たちは少し戸惑います。「足」が「美しい」とはどういうことでしょう。今のように誰もが履物を履ける時代ではありません。皮の分厚い足、ゴツゴツした足です。しかも、山々を行き巡ったがために汚れて泥だらけの足です。過去のものも、今回のものも含めて傷だらけの足です。その足こそが美しいとイザヤは言うのです。苦しみと困難のただ中に置かれた民に、「平和」と「救い」、「恵みの良い知らせ」をいち早く伝えたい。自らの足が傷つくのも怖れず、使者は山々を行き巡りました。この「足」は、そうやって駆け回ったために傷ついた足です。だから、足そのものももちろんですが、その姿が美しいのです。行動し、語り、そのために傷つく姿が美しいのです。
 改めて、「美しい」という言葉が迫ってきます。私たちは何をもって「美しい」としているのでしょうか。見目麗しさでしょうか。育ちが醸し出す気品でしょうか。いずれにせよ、何か、固定化されたものをただ「美しい」とありがたがってはいないでしょうか。
 旧約聖書は大小様々な争い、戦いの出来事を記録しています。その戦いを、神の名の下に美化された歴史としてではなく、人間の極めて愚かしい姿、醜い姿を描き出す物語として受け止めています。強さも弱さも、格好良さも愚かさも全てをひっくるめて存在しているのが人間だと受け止めています。神の前に正しくない姿をも赤裸々に描き、自らの弱さを自覚します。
 この姿勢こそが「美しい」のです。格好をつけて、何でもできる、何でもわかるとうそぶく姿は愚かしい。自らの弱さを認め、過去を反省し、ただ神の救いを待ち望む姿こそ美しいのです。
 そのことを象徴するかのように、救い主であるイエスは、輝かしい成功者ではありません。地上に生きる人々の罪と苦悩を担うメシアです。私たちはイエスの歩みに、イエスの生き方に「美しさ」を見ます。そのイエスが再び来られる。再臨の時がいつなのかはわかりません。二千年前に神が地上にイエスを遣わされたように、もう一度、私たちのもとに遣わされるのです。イエスの生涯を思い起こしながら、その美しさに倣いながら、神の救いの完成を待ち続ける者として、待誕節の日々を過ごして参りましょう。


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