「あなたがたが与えなさい」ルカ9章10-17節  2019年3月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 群衆の数を見て、弟子たちは焦ったことでしょう。男性だけで5千人。女性や子どもも含めれば、もっと多くの人がいたに違いありません。その全員が、自分たちの方を向いています。この圧迫感たるや、相当のものがあります。そして、今、その群衆に向かってあまりよくないことを言わなければなりません。私たちには十分に食べるものがない、と。
 一人や二人ならば、自分たちの力で何とかなるかもしれません。しかし、5千人です。もしここで食べ物がないと言えば、彼らがどのような行動に出るか、想像もつきません。手元にあるのは、わずか5つのパンと2匹の魚。これだけで、いったい何ができようか。パンくず一つすら、満足に行き渡らないのは分かり切っています。
 つい口に出る言葉、「私には無理です。」最初からあきらめています。買ってくれば与えられるかもしれないけれど、そのお金もない、知恵も力もないと、考えることすら放棄しています。「イエスや神ならばできるだろうが、私には無理だ。」
 しかし、彼らは自分が神の御業の一端を担っていたことを忘れています。
 イエスは弟子たちに病気を癒し、神の国を宣べ伝えることを託されました。その伝道旅行から帰ってきた時、弟子たちはきっと、意気揚々としていたはずです。癒しの権能を与えられたことに得意満面だったはずです。しがない一漁師、一徴税人にすぎなかった彼らにとって、大きな御業の一翼を担えることは、心からの喜びだったでしょう。神の大いなる力を直接目にし、体験してきたはずでした。
 ところが、その同じ弟子たちが、その手に与えられた業と異なるものを要求された時、尻込みするのです。「先生、そんなことは教わっていません」「そんな権能は与えられていません」と責任を回避しようとします。それどころか、群衆が自主的に活動することで、食べ物を得られるだろうと、責任を放棄しようとさえします。カトリックの晴佐久昌英神父は、「これは今流行の言葉で言えば『自己責任』ですね」と述べています。
 「自分で責任をとることは大切です。自分の足で立つ。私たちはいつもそうありたいと願っています。できることなら、自分の力で生き、誰にも頼らない生活をしたいと思っています。
 しかし、この群衆は、単なる人間の集まりではありません。「治療の必要な人々を癒やしておられた」(ルカによる福音書9:11)とあるように、困っている人、助けを求める人の集まりでした。
 そそこでイエスは弟子たちに言葉をかけられます。
 「あなたがたが食べ物を与えなさい。」(ルカによる福音書9:13)
 これは、手元にあるものだけで何とかしようとしていた弟子たちを諭す言葉です。また、自分に与えられている恵みは十分で、それを分け与えるのが役割だと思っていた弟子たちの目を開く言葉でもありました。
 このパンと魚とを、そのまま主の恵みと置き換えた時、弟子たちの思いがいかに浅はかだったかわかります。彼らは、自分の手に与えられた恵みを切り売りすることが伝道だと思っていました。神の力を勝手に限定していたのです。
 足りないと思われることが、神の助け、神の力によって成し遂げられる事実がここにあります。足りないと思っていたのは、弟子たちの勝手な思いこみに過ぎませんでした。神に不可能はないとわかっているはずなのに、なぜかここという場面で、人間である自分が顔を出します。全てを神に委ねて、お任せしているはずなのに、自分の力で何とかしようとしてしまっていたのです。
 「あなたがたが与えなさい。」それは食べ物かもしれません。他の何かかもしれません。優しさや愛かもしれません。いずれにせよ、「与えるのはあなただ」ということです。誰かがどこかでやってくれているだろうから、私は受けるだけ、もらうだけではないのです。
 まず私が率先して与えること、それが大切です。持っているものは少ないでしょう。自分のことだけで精一杯かもしれません。しかし、そのあなたの持っているものは全て神から与えられたものであり、神があなたに委ねられたものです。それらを全て生かすこと、言い換えるならば、神から与えられている命を生かすことが求められています。
 もちろん、心の状態や体の状態が悪く、恵みを受けとるだけしかできないという時もあるでしょう。重荷を下ろしてゆっくりしたいときもあるでしょう。その時はゆっくりしていてかまいません。
 なぜなら、イエスは弟子たちに、「与え続けよ。受けようとするな」と言われたのではないからです。ストイックに取り組むことも大切ですが、状況に縛られていては、命を生かすことにはつながりません。「ねばならない」と小さく閉じこもるのではなく、現実を受け止め、その現実としっかり向き合っていくことが大切です。
 イエスは、「先に恵みを受けた者が、まず与えなさい」「与えられる恵みを独り占めしてしまうのではなく、広く隣人のために活用しなさい」と言われています。分けることのできる恵みは、わずかパンひとかけらかもしれません。しかしそのひとかけらが、与えられた人の命を生かすのです。恵みを受けた者は満足し、その恵みは尽きることがありません。残ったパンくずが12の篭から溢れたように、恵みもまた溢れ続けます。
 そして、弟子たちは残ったパンくずを集めて、また旅に出ます。今、起こった出来事に満足してその場所に留まるのではなく、尽きることのない神の恵みを宣べ伝えるために旅立つのです。