「ガリラヤで」マルコ16章1-8節  2018年4月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 イースターを初め、キリスト教のお祭りは嬉しいこと、楽しいこと、喜ばしいことですが、それだけではありません。マルコによる福音書は少しだけ景色が違います。
 元来、マルコによる福音書はこの言葉で終わっていました。
 安息日が明けた朝、イエスの遺体を納めた墓に女性たちがやってきます。あの偉そうなペトロやヤコブやヨハネはどこへ行ってしまったのでしょうか。イエスのためなら命など惜しくないとうそぶいた彼らは、一体、どこへ。いざという時、本当に強いのは誰かと思わされます。もちろん、いろいろな事情があったことでしょう。逃げてしまったことを一概に責めることはできません。それぞれが「怖かった」のです。
 つい三日前まで、彼らは希望に満ちあふれていました。ようやく人生の「勝ち組」になるのだ、と。しかし、その矢先にイエスは逮捕され、処刑されてしまいます。弟子たちの心は深く沈んでいました。そこにもたらされた知らせは「イエスが甦った」というものでした。墓に行った3人は震えながら、ぽつりぽつりと朝の出来事を語り出します。
 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコによる福音書16:7)
 だからこそ、聖書の言葉にしっかりと耳を傾けなければなりません。本当に打ち砕かれなければならないのは、私の中にある「私こそが正しい」という思いなのです。確かに、白い長い衣を着た若者はそう告げました。しかし、そこにイエスの姿はありませんでした。誰もイエスと会ってはいません。どこに証拠があるのかといぶかしく思うのは弟子たちだけではないでしょう。
 他の福音書のように、どうしてその場でイエスに会えなかったのだろうか、と不思議に思います。しかし、弟子たちはイエスに全く会えなかったとは記されていません。マルコによる福音書が描くのは約束、イエスとガリラヤでお目にかかれるという約束です。弟子たちは復活したという知らせを聞いて、嬉しかった者もあれば、恐ろしかった者もあるでしょう。それは「自分たちがイエスを見捨てた」からです。
 しかし、この約束はいたずらに弟子たちの恐怖を煽るものではありません。それは、イエスと会える場所が「ガリラヤ」だということから明らかです。「ガリラヤ」とはどのようなところでしょうか。それは、弟子たちが生まれ育ったところ、彼らが最初にイエスに出会ったところです。現実から目を背け、逃げ出した弟子たちに、もう一度「私とした約束を思い出して欲しい」とイエスは言われているのでしょう。逃げ出した過去は確かにあります。しかし、それを乗り越えて、もう一度、新しく一歩を踏み出そう、と約束の言葉は呼びかけているのです。)
 弟子たちはこの約束の言葉、「ガリラヤでお目にかかれる」という言葉によって、もう一度最初に引き戻されます。イエスが宣教をはじめたその時に。ガリラヤ湖のほとりにいたペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネに、イエスは言われました。
 「わたしについて来なさい。」(マルコによる福音書1:17)  この言葉によって、弟子たちはイエスに従う者となりました。おそらく、彼らの心の内にその事実が思い起こされたことでしょう。そして、もう一度呼びかけられていると確信したのです。
 レントの間、私たちはマルコによる福音書を読み進んできました。毎週、蝋燭の火を一本ずつ消してきました。それは私たちもまた、弟子たちと同様、イエスに従いきることのできなかった証しです。私たちもイエスの前から逃げ出してしまったのです。そのような私たちをも主は見捨てられません。私たちのためにも復活されました。消えたと思っていた明かりが一斉に全て灯されました。私たちの目の前から失われてしまったと思ったものの中に、命が眠っています。イースターの出来事はその事実を教えてくれています。
 それは私たち自身についても同じことが言えるでしょう。人生にはいろいろな瞬間があります。調子の良い時ばかりではありません。躓き、自分には何も残っていないと思うことが多々あります。そのような時に、私たちは最初に戻ることが赦されています。弟子たちがガリラヤでイエスに出会ったように、私たちもその最初に立ち返ることによって、もう一度炎を点し、新しい一歩を踏み出すことができます。そして、私たちは改めて、私たちに託されている役割が何かを考えることができます。賜物を生かすにはどのようにすれば良いかを思いながら、新しく歩み出せるのです。
 イースターは、どれほど躓いても、もう一度立ち上がらせてくださるイエスを再発見し、その言葉をもう一度聞く日です。イエスは言われます。「わたしについてきなさい。ガリラヤで最初に会ったように、もう一度、ガリラヤで会おう。」私たちにとって、最初の地ガリラヤとはどこでしょう。イエスに出会うところはどこなのでしょう。
 何度躓いても大丈夫です。何度でも立ち返り、何度でもイエスと出会い直しましょう。繰り返し与えられる復活の喜びの中で、私たちは前へと進むことができます。  改めて、イースターの喜びを味わいつつ、イエスについて行きましょう。  



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