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「一人一人の上に。」使徒2:1-11  2017年6月4日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 ペンテコステは教会の誕生日です。教会がこの地上に現れて、そして今に至るまでずっと神の御業を、神の栄光を証し続けてきた初めの日です。だから私たちは1年に1回、クリスマスやイースターと並んでペンテコステのことを覚えるのです。私たちもまたその歴史に連なる一人だということを確認する日なのです。
 ところで、聖霊には特別な存在というイメージがないでしょうか。聖書によれば、ダビデやソロモンなど、偉大な王たちに霊が注がれています。また、イエスが洗礼を受けた時、霊が鳩のように降ってきたともあります。特別な人は特別なのだ、と思います。しかし、使徒言行録が伝えていることは、そのイメージとは異なります。
 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)
 それは、どのような一人一人だったのでしょうか。五旬祭になって集まっていた、聖書には一つも名前が残っていない一人一人です。誰一人漏れることなく、その上に霊が注がれました。
 このことは教会の根幹を言い表しています。それは、教会に来ている一人一人が神によって選ばれた人であるということ。一人一人が教会を形成している、形作っている一人一人だということ。そして、そこにいる一人一人が神のことを証ししていく一人なのだということ。
 では私たちは、何を語るのでしょうか。もちろん、私に起こった喜びの知らせを伝えていくことができるでしょう。けれども、私たちの人生は「救われた」「助かった」という喜びばかりではないはずです。苦しみの中にある人に「その中でも小さな喜びを見つけて、その喜びのことを大きく語りましょう」とは言えません。もしかすると語る言葉など与えられなくても良いかもしれません。一人の人間がそこに生きているだけで、神の恵みを証ししているとも言えるからです。ですから、ペンテコステの出来事の際、たくさん語る者もあれば、わずかしか語らない者、口以外で語る者、背中で語る者、足跡を見せる者もあっただろうと思うのです。
 一人一人に聖霊が注がれたということは、その一人一人がその霊によって生かされているということです。私たちに与えられている賜物は、本当に一人一人違います。一方が優れていてもう一方が劣っているというものではありません。私たちは隣の人と比べてしまうがあまり、自分に注がれている賜物、自分に与えられている賜物に目がいかなくなってしまいます。それがあまりにも当たり前になりすぎて。
 一日一日をそれなりに、ほどほどに豊かに過ごしている時、その豊かさの中のちょっとしたことに不安を覚えたり、優越感を持ったりします。けれども、そもそもその全てを与えられたのは誰なのか、また、そのような気持ちを持つ余裕すらも与えてくれたのは誰なのかを思い起こしたいのです。それぞれがそれぞれの存在であるという豊かさを与えてくれているのは誰なのかということを。優劣を競うためではなく、いろいろな人をいろいろな形で存在させてくださる神がおられ、そして、いろいろな姿の者が、いろいろな生き方をしている者がただ一人の神を見上げ、神と共に歩むことができるという喜びを証ししていきたいのです。
 教会とは何でしょうか。教会は、霊に生かされている一人一人が集うところです。
 教会とは何でしょうか。教会は、神と共に生きる人が、共に生きるところです。
 教会とは何でしょうか。教会は、神に生かされている一人一人が、その喜びを胸にまた一歩を新しく踏み出すことができるところです。
 教会とは何でしょうか。教会は、一人一人が違った賜物を与えられて、その違ったものを違った形のままで喜び合えるところです。
 教会とは何でしょうか。教会は、一人一人が、それぞれの置かれている状況が刻一刻と変わっていく中で、その変わっていく状況を、共に過ごし、共にその豊かさを味わっていくことができるところです。
 私たちには一人一人、それぞれの形でできることが必ずあります。それを探していく半年間にしませんか。一人一人の上に霊がとどまったということを、ゆっくり反芻しながら、私に与えられている賜物とは何か、私がかたることのできるキリストの香りとは何か、考えてみたいのです。自分にとって些細なこととしか思えない一つ一つが、実は神から与えられている賜物なのです。それを受け止め直すことができるように、私たちは毎年ペンテコステの出来事を受け止め直しています。誰か特別な人だけに聖霊が注がれたのではなく、そこに集まっていた一人一人、そして私たち一人一人の上に霊がとどまって注がれたという事実を今一度、思い起こしましょう。そして、その霊を全身で受け止め、その霊の力を全身に蓄えて、新たな一歩を踏み出して参りましょう。


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