「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:31~35  2018年4月22日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 次にあげる野菜の中で、仲間はずれはどれでしょう。
 ハクサイ、②キャベツ、③チンゲンサイ、④カブです。
 形から考えて、カブを仲間はずれにしてしまわないでしょうか。他はどれもが葉っぱを食べる野菜だからです。しかし、答えはキャベツなのです。
 植物にはいろいろな種類がありますが、たまたまこれらは同じアブラナ科ブラシカ属に属しています。カブとハクサイとチンゲンサイが「ブラシカ・ラパ」という学名、キャベツは「ブラシカ・オレラシア」という学名です。形は違うけれど、カブとハクサイとチンゲンサイは全く同じ。日本人とアメリカ人のような違いでしかありません。なお、ハクサイとキャベツは人間と猿ほどの違いがあるそうです。
 「人間は頭がいいから、こまごま分類しないと気がすまないようだ。……同じホモ・サピエンスという種の中で、人種が違う、民族が違うと大騒ぎだ。狭い社会のなかにあってなお、点数をつけたり、順位をつけたり、区別や差別をしてやっと安心している。」(稲垣栄洋、三上修『身近な野菜のなるほど観察記』)
 細かいことに違いを見つけたがり、その違いがなければおかしいとさえ思う人間。自らの行動を美化、善化するために、弱者の存在を必要とする社会。他者への優越感だけを求める社会。それが、私たちが今、生きている現実なのです。
 アブラナ科ブラシカ属の植物たちは、さまざまな環境で生き抜くために多様性を身につけました。それは人間も同じことでしょう。姿形がどうであれ、全て人間に違いはありません。そのことは初めから分かっていることのはずです。
 だから、神は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)と戒められました。人間の目から見れば大きな違いがあるかもしれません。しかし、たとえどのような存在であれ、人間は神によって創られた存在、被造物であることに違いはありません。神の前には全てが同じ創られたものであるということ。自分自身が神から大切な存在であると認められているのと同じように、隣人もまた神の前にあって同じくらい大切な存在であることを認め、大切に扱い、愛しなさい、と神は戒められました。同じ人間として当然の思いを抱きなさい、と。
 しかし、その言葉に込められた神の思いは、いつしか忘れられ、その形式だけが人々の間に残ります。自らの行いを神に誇ろうとさえします。まるで天国行きの切符を賭けて争う神との駆け引きをしているかのようです。そこに本来の神の思いはありません。これが、律法主義です。神に答えを求めているようで、実は神など見ておらず、自分自身で答えを出しています。その視線の先に神はいません。
 改めて神の思いを私たちに示すこと、それがイエスの役割です。旧約の昔から言われていた言葉。形だけ実行すればよいと思っていた人間の罪。神は陰に隠れて点数を引き続ける悪質な採点者ではありません。むしろ、罪を重ね続ける私たちの目の前に立って、「それでもなお、お前たちを愛しているよ」と抱きしめてくださる方、それが神です。どれほど私たちが神から離れようとも、どこまでも追いかけ、声をかけ続けてくださいます。その神の思いに応えたい、もう一度、隣人を愛したいと願います。
 人間の愛は、猫かわいがりになることがあります。また、愛の鞭と称したわがままもあるでしょう。もちろん、イエスの愛は生ぬるいだけのものではありません。
 「愛のない正義は残虐さを生み、正義のない愛は陳腐な言葉でしかない」(J・D・クロッサン)
 イエスが、改めて私たちに求めること。それが「互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)です。
 イエスはそのことを「互いに足を洗い合う」ことによって示されました(ヨハネによる福音書13:1-17)。二人のうちの片方が、一方的に我慢をして、相手を立てることが仕えることではありません。相手の自尊心を盛り上げることが「仕える」でもありません。滅私奉公でもなければ、単なる傷の嘗め合いでもありません。時に苦言を呈しながら、より良い存在へと成長していくために、私たちは互いに仕え合うのです。そこには上下の関係はありません。自他の区別なしに仕え合うことはすなわち、互いに愛し合うことへとつながっていきます。
 相手を尊重すること、互いを認め合うこと。それに留まらず、私たちが互いに仕え合い、愛し合うことによって、よりいっそう、神の愛を感じることができるようになります。そして、その愛の関係の中にイエスは共におられます。互いに愛し合うこと、それはイエスの愛を証しすることなのです。
 


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