あえて選んで ヤコブ2章1-9節  2019年10月13日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 誰に尋ねても、「差別は良くない」「人を分け隔てすることは良くない」と答えるでしょう。ところが、そう答えた子どもたちが長じて大人になると、なぜか不思議なことにいじめをするようになります。先日報道された、学校教員のいじめなど、なぜそんなことになるのかと思います。「差別は良くない」「いじめは良くない」というスローガンを「内輪」にしか適用しないからでしょうか。
 消費税を上げたかと思えば、国会議員の歳費を値上げします。ますます貧富の差が拡大している時代です。「自己責任」という言葉が一人歩きし、誰も他者を顧みようとしません。「自分さえ良ければ」という思いがますます強くなっているのでしょうか。それでもそういう人たちを「先生」と持ち上げる人がいるのもまた事実です。
 人を貧富で判断する偏見は、古今東西を問わずに共通しています。聖書の言葉だけでなく、その証左は歴史を通して枚挙に遑がない。
 有名な一休禅師の、袈裟の逸話があります。ある日、金持ちのお屋敷に招かれた一休禅師は、何か心に期するところがあったのでしょう、日時を決めて参上する旨を返事させました。その日の黄昏、一人のみすぼらしい乞食がその屋敷を訪ねたところ、叩かれ、蹴られ、散々な目に遭ったあげく、往来に突き倒されてしまいましたが、それは実は一休禅師その人でした。
 翌日、約束の時間に一休禅師は目の覚めるような法衣と金襴の袈裟をまとい、駕籠で屋敷へ向かいます。すると今度は下へも置かぬ歓待ぶり。しかし、一休禅師は玄関先から動こうとしません。主人がいらだって手を取って引き立てようとするとその手を払い、「それではこの金襴の袈裟や法衣を仏間に持っていっていただきたい。わしの体はありがたいものでもなんでもないから、このむしろの上で結構じゃ」といって「ご主人、実は昨日の乞食も今日のわしも同じ人間じゃ。昨日はたたかれ蹴られ、今日は迎えられて手厚くもてなされるが、一体これはどうしたわけか。このお袈裟が光るからではないのか」といってカラカラと大笑いされました。そして、自分の着ている袈裟や法衣をそこに脱ぎ、「この法衣や袈裟にたのみなさるがいい」といっていつもの通り、何の屈託もなく立ち去ったということです。
 今の私たちだけはそのような偏見から自由になっていると、自信をもって断言できるでしょうか。19世紀、アメリカの教会では、献金額の多寡で指定席があったことが知られています。貧富の差が拡大するこの社会にあってなお、貧富によって座席が異なるなどのあからさまな差別は慎まれているかもしれません。それでも、いわゆるホームレスの人が会堂に入ろうとして断られた、という話も聞いたことがあります。
 確かに私たちの目には、神の創造は不公平に見えることがあります。神は、富める者と貧しい者とをこの世に生み出されます。それを不公平と捉えていらだつのか、それともその多様性を楽しむのか。理不尽なことに対しては怒りを覚えても良いでしょうが、そこに終始してしまっては、せっかく神が与えられたこの世界の素晴らしさを見逃してしまいはしないでしょうか。
 「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(ヤコブの手紙2:8~9)
 神の恵みは、神から祝福された者や律法を遵守する者だけに与えられる特別なものではありません。神の国の福音に接した人間が、イエスの教えに従い、悔い改めのうちに主に立ち帰る時、神の恵みが与えられます。その恵みは、直接的に私たちの生活を満たすものではないかもしれません。しかしその恵みは、私たちの心を満たし、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に応える歩みへと招くでしょう。
 「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」(ヤコブの手紙2:5)
 貧しいから良いとか、金持ちだからダメということではありません。この手紙が教えてくれることは、たとえどのような一人であったとしても、神はこの私を「あえて選んで」恵みを与えてくださっているのだということです。私にはその恵みが溢れているのだということです。自分に与えられた人生を誠実に歩む時、神は共にいてさらに恵みを増し加えてくださいます。その恵みの中で、また私たちは一歩を踏み出していくことができます。世間的に見ればそれは茨の道かもしれません。ですが、そこは神の祝福に満たされた道です。神は私たちをあえて選んで、その道へ招いておられます。その思いに応えて、これからも歩んで参りましょう。


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