「呼びかけよ」イザヤ40章1-11節  2017年12月17日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ」(イザヤ書40:1-2)。
 イザヤはイスラエルから遠く離れたバビロンに連れて行かれたユダヤの人々に力強く語りかける。あなたたちが涙しながら歩いてきた道、険しい道を主は平坦にされ、心晴れやかにその道を帰って来ることができる。そこを歩く人の心は本当に平らかになっていて、たとえ険しい山道だったとしても、たとえ暗い森の中だったとしても、広い道として歩くことが出来ただろう。そしてこの言葉は、実現します。イスラエルの人々は、そのことをしっかりと受け止めて生きてきました。
 しかし、ずいぶん時が経ちました。喉元過ぎれば熱さ忘れる。私たちは自分で言った言葉さえ一瞬の後に忘れてしまいます。「肉なる者は皆、草に等しい」(6節)、「草は枯れ、花はしぼむ」(8節)かもしれません。けれども、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)。神の言葉が一度きり叶っただけだったとするならば、過去形で「神の言葉はかつて立っていた」となるでしょう。しかし、ここでは現在形で語られています。それは、私たちが生きているこの時代も含めて、イエスの再臨のその時まで神の言葉はとこしえに立ち続けるということです。今もなお神がこの地上に力を及ぼし続けているのです。
 ですから、この神の言葉は、今も力強く生き続け、私たちの耳に語りかけています。「呼びかけよ」と。かつてイザヤがイスラエルの人たちに呼びかけたように、今、私たちにも「呼びかけよ」と。
 けれども、私たちもイザヤと同じように言うでしょう。「わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と」(6節)。これまで、どれだけ働いてもなかなかその実を結ぶことがなかった経験が、一層私たちを億劫にさせる。私たちはひたすら言葉を探し続けるしかありません。一人一人、自分に与えられた環境の中で、一所懸命目の前を見つめ、何と語ったら良いですかと聞き続けるしかありません。
 サーロー節子さんという方がおられます。現在、85歳。13歳の時に広島で被爆され、20代から反核運動に関わってこられました。でも彼女は特別だから語ることができるのではありません。彼女を支えているのは、自分が生き残った一人だということ。何十万もの人が亡くなり、声を上げることが出来なくなったその中にあって、その代表としてここに立たされているのだという強烈な自覚です。だから彼女は一生懸命学ぶし、人の話を聞くし、そして言葉を選んでいくのです。
 2017年、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞しました。ノルウェーのオスロで開かれた授賞式で、節子さんが印象的なスピーチをされました。彼女が実際に原爆に遭われた時、青白い閃光が見え、体が宙に浮かぶのを感じたそうです。一瞬の後、暗闇の中で同級生たちの呻き声が聞こえました。「お母さん、神さま助けて」。そんな時、彼女の左肩を誰かが掴みます。そしてこう言いました。「諦めるな。がんばれ。光が見えるか。それに向かって這っていくんだ。」その言葉を聞いて、彼女はその言葉通りに行動し、九死に一生を得ました。同級生たちの多くは、その建物の中で生きながらに焼かれていったそうです。
 彼女はスピーチの中で、この言葉を二度繰り返していました。「核兵器禁止条約が七月に発効しました。その条約が出来たことが私たちにとっての光です。その光がある限り、私たちは生きていくことが出来る。だから皆さんに語りかけます。『諦めるな。がんばれ。光が見えるか。それに向かって這っていくんだ』」。そうスピーチを締めくくられました。何か特別な事を言っているわけではありません。私たちにとってありふれた言葉で、でもとても大切な事を伝えてくれている言葉です。私たちもこのように語ることができれば良いのだと思えました。
 「呼びかけよ」と語りかけられる時、私たちは身構えてしまい、難しく考えてしまいます。けれども、言葉が増えれば増えるほど、私たちの想いは伝わり難くなるのではないでしょうか。私たちが伝えるべきことは何でしょう。それは、暗闇の中にいる人たちに、辛い思いをしている人たちに「光はある」ということを伝えていくことでしょう。「あなたの目には、今は光がちょっと見え難くなっているかもしれないけれど、私には見えている。あの光に向かって一緒に歩いて行こう」。そう呼びかけてれば良いのです。ほんの少し先に、主の光の一端を垣間見た私たちに出来る唯一のこと。自分自身も、悠々とその光に向かって歩いている訳でもないでしょう。同じように瓦礫の下に埋もれ、這々の体で、なんとか這って行きたいと思っている私が、あなたと共に生きていきたいと思っている。あなたと一緒にあの光のところに這って行きたいと呼びかける事ならばできるのではないか。。
 私たちは主の光を見た一人として、その代表としてここにいるのだということを、今日、新たに思い起こしましょう。「諦めるな。がんばれ。光が見えるか」そう呼びかけながら、光に向かって、共に這って参りましょう。


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