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「このことを信じるか」ヨハネによる福音書11:17~27  2017年5月7日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 イエスは、マルタとのやりとりの中で、有名な言葉を告げられました。しかし、その問い方は、はっきりとしたものとは言いがたい印象があります。
 問われて、彼女は口を開きます。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネによる福音書11:25~26)
 一度聞いただけではとてもわかりにくい。ですが、何度か繰り返して読めば、「いのちと死」について問われていることがわかってきます。強く迫られたマルタは答えます。
 「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネによる福音書11:27)
 この応答は、一見するとちぐはぐです。「いのちと死」について問われたにもかかわらず、マルタは「『神の子』であると信じる」と答えているからです。客観的に見て、この問答には合理性がありません。イエスの問いも科学的な常識からすれば「?」ですし、それに対するマルタの応答も「?」です。一体、何が問われていたのか、また、何を応えれば正解だったのかよくわかりません。
 しかし、改めて考えてみると、この問答は本当にちぐはぐなのでしょうか。もしかしたら、この問いと答えの中に、重要な問題が隠されているように思うのです。
 私たちはいつの間にか、合理的であることが全てに優先するという価値観を持っていないでしょうか。理解できる、納得できることが大切だと思っていないでしょうか。正しい答えがあって、それに合致するか否かだけを判断材料にしています。そして、本当は、その一つの価値観だけでは満たされないことを知っているのです。けれども、考えれば考えるほど、不安は増していくばかりです。ですから、なるべく考えないようにしています。いや、むしろ、考えないで済むように仕向けられているのではないかとさえ思えてきます。
 改めて、イエスの問いに目を向けてみましょう。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11:26~27)
 ラザロの復活物語全体のクライマックスはこの言葉にあります。物語全体がこの言葉のためにあると言ってもよいでしょう。なぜなら、ラザロは、何年後か、あるいは何十年後か先に再び肉体の死を迎えたでしょうが、この言葉は永遠に残るからです。
 この言葉のうちで、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」ということと、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」ということは、同じことを裏表で語っています。それは、命の源であるキリストにつながる時に、死は死でなくなる、ということです。
 人間にとって、仮に一時の病が癒されたとしても、そのことが繰り返され、永遠に生き続けることができるのではありません。死は人間にとって避けられない出来事ですし、人間は死の支配に屈せざるを得ない運命にあります。しかし、イエスはその死を、避けることにおいてではなく、神による永遠の命の約束において、克服してくださったのです。
 「このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11:26)
 に向かって前進していくのです。マルタには、どう考えても合理的ではない命題が突きつけられました。ところで、ルカによる福音書では、マルタは自分中心の人間として描かれ、地位がおとしめられているように思えます。ろくに話も聞かず、働くしか能のない女として描かれているようです(ルカによる福音書10:38-42)。ちぐはぐな応答を通して、ヨハネによる福音書もまた、彼女が本当にそのような人物だったと描こうとしているのでしょうか。
 私はそうではないと思っています。なぜなら、彼女はすぐに「信じます」と答えているからです。イエスこそそのような神の約束を全て体現されている方であり、その方がここに来られ、ここにおられることを受け止めている、正しい応答だと思えるからです。もちろん、その答えが揺らがなかった、ということではないでしょう。どんな状況でも信じ続けることができたわけでもないでしょう。それでも、この答えは彼女の存在のすべてを物語っているように思えます。
 「わたしは信じております。」(ヨハネによる福音書11:27)
 あきらめて、無理矢理信じ込むのではありません。ゆりかごから墓場まで、私たちは神に支えられ、愛されています。どのような自分であったとしても愛されています。たとえ神を愛せない自分であったとしても愛されています。どのような自分である「にもかかわらず」愛してくださるのだから、私たちも、「にもかかわらず」信じるのです。神を信じるに価しないような人間にさえ、「いのち」を約束してくださる主を信じたいのです。
 「ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編136:4)
 いのちの主をまず信じるところから、たたえるところから始めてみましょう。


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