すべての民を マタイによる福音書28章16-20節  2019年6月2日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 私たちは信仰告白の中で、イエスの昇天を告白します。「……主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に坐したまえり……」
 マルコによる福音書には、復活の後、弟子たちに話をされたイエスが、天に上げられたことが記されています。また、ルカによる福音書によれば、それは復活から40日目のことでした。今年の復活の日、イースターが4月21日。それからちょうど40日目が、5月30日の木曜日でした。私たちはこの日をイエス・キリストの天に昇られた日、昇天日として覚えています。
 マタイによる福音書には昇天の記事はありませんが、マタイが伝えるイエスもまた、この地上において人の姿ではおられないことを前提としています。そしていつの日か、イエスが再び来られ、平和を実現されることを確信しているのです。
 イエスの十字架は旧約聖書の預言の成就でした。ユダも含めて12人の使徒たちは、イエスを十字架へと導いていく役割を担っていたと言えるでしょう。イエスは弟子たちを呼び集めるとき、「わたしに従いなさい」と語られました。この「従う」とは、イエスについて行くことであり、イエスと共に十字架への道を歩むことを指しています。
 しかし、ユダを失った後の使徒たちの役割は変わりました。それは、ユダに変わる新しい使徒の選出に当たって、ペトロの言葉が変わったことからわかります。
 「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1:21-22)
 ペトロを変えたのは何だったのでしょうか。十字架に至る迄の道のりは、使徒たちにも隠されていました。使徒たちはただイエスに従って、ある意味、訳もわからずにその後をついて行きました。それは十字架と復活を経ても、まだ変わっていなかったかもしれません。そのペトロたちを変えたのが、イエスの言葉でした。
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28:19)
  このイエスの派遣命令が使徒たちを変えました。使徒たちは自分に託された役割を改めて自覚しました。「主の復活の証人」、すなわちイエスがこの地上に来られたこと、私たちのために十字架にかかられたこと、死んで復活してくださったこと、何よりも、イエスが私たちに託された言葉を伝えていくために今、ここに立たされていることに気づかされたのです。
  ところで、聖書は「疑う者もいた」との証言も合わせて語っています。復活のイエスを目の前にしてまでも、まだそのことを信じられない者がいたことを伝えています。これは、私たちにとってある意味、助けとなる言葉です。使徒たちもまた完全ではなかったという意味で。
  現実にその姿に触れることのできない者、復活のイエスに出会うことがなかった者は、それを信じることができるのかという問いがあります。人は、自分の経験したことだけが、自分の全てだと思っているからです。経験のないことには臆病になり、そこへ新しく一歩を踏み出すことができません。また、全てを自分の経験の尺度にはめ込もうとします。イエスが私たちを愛しているという言葉を、誰か他人との関係に置き換えて考え、イエスの力を、神の思いを矮小化してしまいます。
  けれども、聖書が伝えているのは、疑う者であろうが、信じる者であろうが、使徒たちには主の言葉を伝えていく役割が託されているという事実です。ただ従うだけだった使徒たちが、今度は自ら歩み出す者となったという出来事です。そして、「すべての民を」とのイエスの言葉に応える者となりました。何よりも、「あなたがたは行って」との言葉に応えて一歩を踏み出しました。そのような使徒たちにさらなる約束が告げられます。
  「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)
 私たちもまたイエスの証人の一人です。私たちもまた使徒たちと同様、「あなたがたは行って」とのイエスの言葉に応えて一歩を踏み出しましょう。私たちにも「すべての民を」招くようにとの役割が与えられています。聖霊の内なる助けを受けつつ、それぞれが与えられた場所へと遣わされて参りましょう。イエスが再び来られるその日まで。  


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