「すべて赦される」マルコ3章20-27節  2018年2月25日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 社会全体が安定していないように見えるから、せめて自分は安定していたい。これは結果として差別や偏見を生み出していく一つの力になっていきます。差別する側とされる側の違いは、安定と不安定です。相手を見下すことは安定を生み出します。
 「汚れた霊に取り憑かれている」「気が変になっている」とは、相手の方が不安定な立場だと見下す言葉です。イエスを認めたくない人たちは、自分の安定している立場を崩されたくないという思いから、そうイエスを断じました。自分の不安を打ち消すために。
 聖書の記事によれば、イエスは悪霊・サタンに負けたことはありません。けれども、イエスに対してもっと大きな力を及ぼしているのは、悪霊でもサタンでもなく、隣にいる人間でした。「安定を求める」人間の「正しさ」でした。そしてその人間の正しさはイエスを十字架につけてしまうところまで行き着くのです。
 もちろん、私たちは知っています。この十字架がイエスの最終的な敗北ではなかったという事実を。むしろそれは、本当の勝利とは何かを指し示す大事な一瞬でした。自分の正しさを誇ることではなく、神の正しさを見つめ、神の正しさと共に生きていくことこそが本当の勝利なのだということです。神が創られた全ての前に、しっかりと向き合って立ち、その一つ一つが神に創られた大切なものなのだということを受け止め、自分の正しさを誇ろうとしている自分を恥じ、神の前に頭を垂れることです。
 しかし、人間は弱い。つい物語を自分の側に引き寄せて読もうとします。イエスが悪と戦う場面が出てくると、「(私の目から見て)悪(と見えるもの)をイエスが滅ぼしてくれる」という勘違いにつなげていってしまう。
 だからこそ、聖書の言葉にしっかりと耳を傾けなければなりません。本当に打ち砕かれなければならないのは、私の中にある「私こそが正しい」という思いなのです。
 もっとも、イエスは厳しいことばかりを言う方ではありません。
 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(マルコによる福音書3:28)
 すぐ手前勝手になってしまう私たち、すぐ自分の安定だけを求めてしまう私たちをもイエスは赦すと言われます。もちろんこの「赦す」は「何でもあり」ではありません。自分の行いがどれほど自分中心になり、神の思いから離れていたのか。神の思いを冒瀆していたのか。そのことを知ったときに私たちは悔い、反省することができます。自分の正しさこそが神の正しさと信じて疑わなかった自分を再発見します。そして、そのことがいかに愚かなことであったのか気づいていく。そんな一人一人が赦されるのだとイエスは言われるのです。 彼女はスピーチの中で、この言葉を二度繰り返していました。「核兵器禁止条約が七月に発効しました。その条約が出来たことが私たちにとっての光です。その光がある限り、私たちは生きていくことが出来る。だから皆さんに語りかけます。『諦めるな。がんばれ。光が見えるか。それに向かって這っていくんだ』」。そうスピーチを締めくくられました。何か特別な事を言っているわけではありません。私たちにとってありふれた言葉で、でもとても大切な事を伝えてくれている言葉です。私たちもこのように語ることができれば良いのだと思えました。
 赦された人は、どのような人へと変えられていくでしょう。自分が赦された経験は、自分もまた赦すことができる人へと作り変えていきます。私たちは互いに赦し合うことによってしか、豊かな世界を作り得ないことを知っています。知っているはずなのに、自分の安定だけを求めて相手を見下す。この繰り返しを続けているのではないでしょうか。
 悪は、叩き潰すことによってなくなりはしません。力で相手を言い負かし、力で相手を圧倒し、力で打倒しようとするところに、悪の根は一生残り続けます。内輪で争っている内は神の国なんて実現しません。それは、サタンが内輪もめしているのと同じです。
 「ディベート(討論)は、話す前と後で考えが変わったほうが負け。ダイアローグ(対話)は、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。」(平田オリザ)
 相手を打ち負かすことだけに躍起になっていないでしょうか。自分は変わることなく、相手を変えることによってのみ世界を変えようとするのは、イエスの目の前にいる人たちと同じです。イエスは、そのような一人一人のところに近寄って行かれ、その姿勢では本当の平和・安定は訪れることはないと言われています。相手を切り捨てることなく、対話し続けることによってのみ、神の平和は実現される。自らを殺そうとする者さえをも赦し続けることによってのみ、実現されるのだと。
 その意味で、イエスの戦いは全く派手ではありません。イエスは人間の「正しさ」と地道に、こつこつと戦い続けられました。私たちが「悪との戦い」という言葉で学んでいくのは、派手で格好良くて目立つ戦いではなく、イエスのこういう地道で地味な戦いです。世間で差別されている人たち、抑圧されている人たちのところに行ってそっと寄り添い、その人たちの生きる希望となられた姿。自らもまた「気が変になっている」「悪霊に取り憑かれている」と蔑まれてもなお、そのことをやめられなかった姿。そういう地道な戦いこそが私たちが学び、倣っていく戦いなのだと思います。
 それは、十字架までずっと続く戦いです。一時はこの世の力に屈しているように見えながらも、究極の勝利を目指して神と共に歩んでいく。神の平和を実現していくその勝利に向かって地道に歩んでいく、地味な戦いです。私たちもまたその戦いへと招かれています。私たちにできることは本当に小さいでしょう。しかし、一人一人が、一人一人の目の届くところ、手の届くところ、声の届くところで地道な戦いを繰り返し、繰り返し続けていくことによってのみ、神の平和は実現されていくのです。「自分が正しい」ではなく、「正しい神と共に歩む」という思いを持って、その一つ一つと向き合って参りましょう。  



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