「愛によって歩む」エフェソ5章1-5節  2017年10月1日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 神に従って生きる時、この世の中での働きとぶつかってしまうことがあります。聖書的にどのような生活が一番相応しいのか疑問に思えたり、自分の生活がキリスト者としての生き方に相応しくないと思えたりします。
 「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」(エフェソの信徒への手紙5:3~4)。
 「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません」(エフェソの信徒への手紙5:5)。
 このように言われたら、やはり自分はふさわしくないと思えます。「ねばならない」という視点で自分を見つめてしまうと、どうしても減点法に陥ります。こうあらねばならないという枠を自分が作ってしまい、その枠の中に自分を押し込めてしまうことに一生懸命になってしまうあまり、大事なものを見失ってしまうこともあるでしょう。また、自分の可能性を潰してしまうこともあるでしょう。「ねばならない」と考えること自体が、私たちを違う方向へと導いているように思えます。もちろん、聖書は、また神は、キリスト者としてふさわしい生き方をして欲しい、ゆたかな人間になって欲しいという強い思いを持って私たちに望んでおられます。しかしそれが、「ねばならない」だとするならば、私たちの多くの者はその「ねばならない」に到達出来ないままこの世の人生が終わっていくように思えます。
 無論、反省は必要です。けれども、後ろばかり見ていても、私たちは前に進むことができない。人生のレールが敷かれているようで敷かれていない、人生の道があるようで、よくわかっていない私たちにとって、ぼんやりと霞んでいる中でも一歩ずつ前に進むことが大切だとするならば、まず見なければ一歩を踏み出すことができないと思うのです。私たちは大抵、後ろを向いて歩けば躓いて転ぶか、あらぬ方向に進んでいくか、進むことが怖くなってそこで立ち止まってしまうかのいずれかでしょう。
 「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って 命を得ることができますように」(詩編119:37)。
 自分が大事にしようと思っているもの、自分の中にあるだけのもの、「自分だけが」という虚しいものに目を向けるのではなく、そこから視点を移して、あなたの大きな導きの方向に、あなたの大きな優しさの中に、あなたの大きな愛の方向へと、視点を移させてくださいという祈りです。虚しいものばかりを見てしまう視野を広げてください、あなたが見させようとしているものに目を開かせてくださいという祈りです。そして、あなたの道に従って行くことによって、命を得ることが出来ますようにとの祈りでもあります。あなたが小さなことにこだわろうとする私をも選び、私を見つめ、私を愛し、私の命の可能性を開き続けてくださっているところに視点を移させてください。そして、私の命を生きさせてくださいという祈りでしょう。
 顧みると、私たちが望んでいるよりも遥かに多くの恵みが与えられていたことに気づかされます。それは私が望んだものとは違うかもしれませんが、本当にたくさんのものが与えられています。そして、私たちの予想もしない形で私たちの道は切り開かれ、今日ここまで生きてきたのです。この祈りは、その有り余る恵みをもう一度見つめ直し、そして、またもう一段先に進み行こう、との呼びかけです。私たちの目の前に広がっている、その大きな道に目を開いて、そこに一歩を踏み出していこう、あなたの目の前には既に道があるのだから、そこに目を移していこうとの呼びかけでもあるでしょう。
 その道は、どのような道でしょう。
 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソの信徒への手紙5:1)。
 パウロは手紙の中でしばしば、「わたしに倣う者になりなさい」と語ります。それは、彼のようにキリストに従う者として歩むように、という招きとして理解できるでしょう。しかし、「神に倣う」とは神の生き様がわからないから、わからないと思うかもしれません。けれども、これはそれほど難しく考える必要も無いでしょう。神から受けたものを広くこの世界に分かち合っていくことこそ、神に倣う生き方です。ちょうど、キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまり生贄として私たちの代わりに神に献げてくださったように、私たちも愛を献げ合う。もちろん、キリストと同じように十字架に架かることは難しいかもしれません。けれども、私たちにはキリストがこの地上でどのように生きられたのか、そしてどのような人々と交じわられ、そしてどのような方々と一緒に歩まれたのかということを私たちは知っています。神の子として、何不自由なく神の元で過ごされていたキリストが、私たちのために人となられ、そして私たちのために十字架に架かられ、その歩みを歩み通されたということを私たちは知っています。そのキリストと共に生きつつ、あなたがたも愛によって歩みなさい、と聖書は私たちに教えています。
 「受けた恵みは分かち合えと主は励まし送り出される」(『讃美歌21』376番)。
 私たち一人一人がその体で、その生き方で、その人生で受けてきた愛の恵みを分かち合っていくことが大切です。私たちの一歩を踏み出す力は小さいかもしれません。しかし、その小さい一歩を支え、助けてくださる。今の私たちだけが良ければ良い、という視点ではなく、時代を超えた全ての人と分かち合っていくという、次の視点へと移されていくことが大切です。あなたがたも愛によって歩みなさい。受けた恵みは分かち合えと主は励まし、送り出してくださいます。


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