「主が語られた言葉」エレミヤ36章1-10節  2017年12月10日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 教会の一年は待降節(アドヴェント)から始まります。二千年前、神がその独り子を私たちにくださるという約束が実現されたことを思い起こす期節。「旧約の神の言葉」の中に、神の喜びの知らせ(福音)を聴く期節。未来に待つキリストの到来の約束を聴き直し、その実現が確実なものであると信じ、待望する期節でもあります。そして同時に、アドヴェントは私たちに「悔い改め」を期待する期節です。
 しかし、私たちが行うべき悔い改めは、自分の欠点を挙げ、自らが反省することではありません。それはそれで大切なことですが、神の言われる悔い改めの理解としては浅薄です。ですから、悔い改めのために神がなされたことは、人々の悪行を並び立てることではありません。神がこれまで語ってこられた言葉を書き記し、それを人々に語ることでした。
 つまり、神は人々を裁くことで糾そうとしたのではなく、人々が立ち帰り、変わることを期待されたということです。その語りかけは当然、神の言葉へと「立ち帰る」ことを求めてきます。人々が神の下へと帰り、神の思いに応えて生きる一人へと生まれ変わることを求めてきます。神の言葉と共に立ち上がることを求めてきます。その言葉に応えて、神と共に一歩を踏み出すのが「悔い改め」なのです。
 さて、エレミヤは、神から預言者として立てられ、神の言葉を民に伝える役目を与えられました。エレミヤは、もちろんその時代、その国の人々に対して語りました。けれども、その言葉は、何千年もの時を超え、彼自身はおそらく考えもしなかった遙か未来の、遠い異国に生きる私たちに対してもなお、生ける神の言葉として、命の力をもって働きかけています。
 そんなエレミヤが人々に伝えてきた言葉、神が語られてきた言葉、イエス・キリストにおいて語られた言葉、そして、今、私たちが聞くべき言葉は、「神の愛」です。「あなたの人生は常に私と共にある。どのような時でも共に歩もう」と呼びかけられる神の愛。けれども、その神の愛は、何でも赦してもらえるという主体性を失った依存的な関係ではありません。神の裁きの言葉は、神の愛とそれに対する人間の真剣な応答という緊張関係をもたらすものなのです。
 ですから、エレミヤを通じて告げられる神の言葉は、この世の春を謳歌する時の権力者に対する鋭い批判を真っ向からぶつけて行くことになります。それは当然、悔い改めを迫り、真に生きる道を示すものでもありました。。
 しかし、その言葉が真摯なものであり、正しいものであればあるほど、耳に痛いことも確かです。
 「ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」(エレミヤ書36:23)  権力者は力を振るって、その書き記された神の言葉を消滅させることはできるかもしれません。しかし、神の言葉を殺すことはできません。神の言葉を聞いた私たち一人一人の、心と体に刻み込まれた神の言葉は、決して殺すことはできないのです。権力者たちにとっては皮肉なことに、聞きたくもなかった彼らの心の中にさえ、神の言葉は生き続けています。
 そのような神の言葉を聞いた私たちがなすべきことは何でしょう。それはやはり、エレミヤが行ったように、神の言葉を現代に語られた言葉として示すことでしょう。神の言葉が「今」の私たちを生かし、「今」の私たちを支え、「今」の私たちを力強く立ち上がらせる言葉であることを、身をもって証ししなければなりません。
 「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(エレミヤ書36:2-3)
 日本は、そして世界は今、戦前たどったあの道を、命を軽んじるあの道を再び歩もうとしているように思えます。この時に当たって、神の言葉が真実だと信じる者は、自分がどこに立つのかを問われています。神の言葉に立つのか、権力者の言葉に立つのか。日本の行く末と国家の有り様に関心を持ち、具体的に行動していくのは、まさに信仰そのものに関わる事柄なのです。
 私たちは何を信じ、何を期待し、何を待ち望んでいるのでしょうか。今一度、改めて、主が語られた言葉に聴きましょう。いつものらりくらりと神の思いから逃げだそうとする私を包み、生かしてくださる神の言葉。そんな神の言葉と真剣に向き合いましょう。神の言葉に耳をそばだて、聴き続け、その言葉を受けて、力を得たい。そして、その言葉を語るために力強く一歩を踏み出そうではありませんか。



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