「主は我らの救い」エレミヤ33章14-16節  2018年12月2日礼拝説教  北村 裕樹牧師

  旧約聖書はその冒頭、神がこの世界を造り、人間を造り、「あなたと共に生きたい」という願いを込めて、全てのものに命を与えられたと記しています。徹底的に人間と関わり、その中でも特に、弱い者、何の力もない者を選び、共に生きることを選ばれたと記しています。その選ばれた民がイスラエル。だから、彼らはその神の思いに応え、絶えず神を求め、神を愛し、神に従うことを望んでいたはずでした。
 けれども、神に愛され、神から計り知れない恵みを受けながら、イスラエルの人々はその思いに応えず、自分勝手に生きてしまうようになりました。聖書はそのどこか後ろ暗いイスラエルの姿を赤裸々に描き出しています。イスラエルにとって都合の悪いことを一切隠そうとせず、自らの歴史を直視せよと鋭く突きつけているのです。
 イスラエルの人々は、挫折と立ち直りを繰り返します。何度も神を裏切りながらもなお、神と正しい関係を築きたい、修復したいと願い続けていました。しかし結局、自分たちだけで神の思いに気づくことができません。神が預言者の口を通して何度も警告し、思いを伝えようとしたにもかかわらず、その声に一切耳を傾けようとしませんでした。
 それでも神は人間を見捨てられません。それどころか、人間を自由に生かしてくださっています。神を信じる自由を与え、また傲慢にも神を見限ることさえ赦しておられます。あなたを愛し続けると約束してくださっているのです。
 その神の思いに、イスラエルの人々は少しずつ気づき始めました。漠然とした思いだったかもしれません。それでも、人々は神の愛が実現される日を待ち始めました。
 神は、一つの約束をされます。いつの日か、エルサレムが安らかに人の住まう都となること。その時、エルサレムの町は、またそこに集う全ての人々は「主は我らの救い」と呼ばれるようになるであろうこと。そして、世界の全てがエルサレムとなり、世界の全ての人々が平和に生き、神の正義が実現されること。これこそ、神の願いです。その実現のために、神は正義の若枝を生え出でさせることを約束してくださいました。
 これを聞いたイスラエルの人々はきっと喜んだことでしょう。今は苦しいかもしれない。しかし、いつか必ず救いがもたらされる日が来ることが、確実となったからです。ただ、彼らが安易だったのは、その時が来ればそれで終わりだと思っていたことです。悩みや苦しみがあっという間に解決されて、平和な日々がやってくると勘違いしていました。
 その思いを象徴するかのように、イスラエルの人々は、神がイエス・キリストをお与えになったとき、神の思いに気づけませんでした。何か安易で簡単な解決法が与えられると思っていたから、神がイエス・キリストを通して、「イスラエルよ、自ら気づくのだ」と言われていることに気づくことができませんでした。一人一人が神の思いに気づき、神の思いに自分から応えることによって初めて、神の正義が実現されるということがわからなかったのです。
 このイスラエルの姿は、私たちの姿です。私たちの歩みは曲がりくねり、先も見えません。かつてそのような約束がなされ、果たされたことを頭の片隅に記憶していながら、すっかり忘れてしまっています。振り返ってみれば、神の正義が実現されているとは言い難い現実があります。神の正義など、何も実現されているようには見えません。もっと簡単な解決方法を、もっと楽な道をと求めてしまっています。
 そしていつしか私たちは、現実を見ることをやめてしまうでしょう。簡単に臭いものに蓋をしてしまいます。自分に都合の悪いことを隠して生きています。そして、自分に都合良く生きたい、自分さえよければ、と思っています。
 私たちの人生は、「主は我らの救い」と呼ばれるにふさわしい歩みとなっているでしょうか。もし、私たちの歩みが「安らかに人の住まう都」でないとするならば、それはなぜでしょう。自分が正しいと声高に主張し、相手の言葉に耳を貸そうとしなければ、その人生は「救い」とはほど遠いように思えます。
 自分の正しさだけを押し通そうとしていませんか。もしそうだとすれば、私たちは本当の意味で悔い改めなければなりません。悔い改めとは、自分が間違っていたと反省することではありません。自分が正しいと思っていることは確かに正しい。しかしそれが、神の「公平と正義」に照らして正しいかを考え直すことです。そして、自分の正しさを押し通すことをこらえることです。
 自分で自分を律するというのは本当に難しいことです。自分を抑えることは難しいこと。だからこそ、私たちは祈らなければなりません。「主よ、ここに来てください」と。自分の正しさに限界があると知ることは苦しいことです。けれども、そこに主が来てくださいます。一人ではできないことを主が共に担ってくださいます。「アドヴェント」はラテン語で「来臨」という意味です。主が来られるその日を、一日千秋の思いで、心して待ち望みましょう。