「安息日に」ルカ6章1-11節  2019年2月10日礼拝説教  北村 裕樹牧師  戻る

 安息日を守ることは推奨されるべきことです。けれども、神の思いと人間の思いとのずれが生じてきているのではないでしょうか。それは、あまりにも安息日の規定を遵守することを優先するあまり、何のために安息日があるのかを考えず、その形式だけを守ろうとしていたということです。「ルールのために人がいる」と考えていたのではないでしょうか。「ルールがあるのだから、従うのは当然」と考え、そこに生きている一人一人を見失っていた。だから、律法学者たちやファリサイ派の人たちはイエスのことを批判したのです。そこで行われていることが何かを見ようともしないで、安息日規定に違反したことを咎める。
 そもそも、安息日の規定は、「大切にする」だけだったはずです。それがいつの間にか、細かい人間の恣意的な部分、思い込みが加味されて本質を見失い、形骸化されたルールになっていきます。そればかりか、そのルールに従わない存在を排除しようとするのではないでしょうか。
 このことは、私たちの暮らすこの社会は得意です。「決まったことだから」「そうなっているから」と考えることを拒否して、唯々諾々と従います。
 形骸化させたルールに従えと声高に主張することは、神の前にあって不遜なことです。しかもそれを「神の名を借りて主張する」。それはなお、たちが悪いことです。もちろん、彼らにも言い分はあるでしょう。「まずはしっかりと従うことが大切だ。そうでなければ、人間は簡単に歪んでしまう」との声は、ある程度納得できるものでもあります。けれども、そこに生きている人間がないがしろにされてしまっては、ルールは人を生かすものにはなりません。せっかく神が定めてくださった「安息」というルールが、人を殺すものになってしまうのです。
 そもそも、「安息」とは何でしょう。休まるとき、落ち着くとき、そして改めて神の方を向くときです。神はその思いをもって「安息日を守りなさい」と命じられたはずです。今まで自分が背負ってきたものを脇に置いて、もう一度神と出会い直すための日、それが安息日です。
 毎日を生きていく中で私たちはたくさんの仮面を被ります。強がっている自分、がんばっている自分、肩肘張っている自分、怒っている自分……、そうやって何とか弱い自分を押し隠して、私たちは毎日を生き抜いています。その仮面を外して神の前に立つ、安息日とはそのような一日であるはずです。ところが私たちは、仮面を外すことをせずに、いろいろ被ってきた仮面の上に、「安息日だから安心している自分」の仮面を被ってしまいます。それは何度も繰り返され、仮面の上に仮面を被り、本当の自分を見失っていきます。そして、「安息」を感じられなくなってしまうのです。
  編集者の松谷信司さんの言葉を紹介します。
 「結婚相手の条件は互いの嫌なとこ10個挙げて、それでもなお一緒にいたいと思えるかどうかだと思ってる。好きなとこしか見えてない(見ようとしない)うちはまだ淡い恋に過ぎない。ホントに愛するには嫌なとこからも目をそらしちゃダメだよ。かっこ悪い欠点も含めて尊重し合えてこそ絆は深まるもの。」
 これは他者との関係だけでなく、自分自身と向き合うときにも同じことが言えるのではないでしょうか。自分の嫌なところ、良いところときちんと向き合わなければ、自分というものがわからなくなってしまいます。本当の意味で「生きる」ということを見失ってしまうのではないでしょうか。
 それは、居心地が悪い事柄でしょう。苦しい事柄でしょう。自分では見たくないもの、見ようとしていないもの、自分が隠しているものが露わにされることは苦しいことです。しかし、それを怠っていれば、いつしか「厚顔無恥」になってしまいます。自分のことを知りもしないで、全部わかっているかのように振る舞ってしまうのではないでしょうか。
 聖書に登場する人々は、ある部分、欠けのある人物ばかりです。預言者たちが繰り返し嘆くのは、「義人はいない」、正しい人はいないということです。そうであるならば、私たちが無理に強がって、「私は正しい」「私は強い」と言う必要はないでしょう。もし人間が森羅万象を司るほど完璧ならば、イエスの十字架も復活も必要なかったはずです。
 しかし、そうではないことは明らかです。私たちは弱く、そして小さい。そのような私たちのためにイエスは十字架にかかられ、そして復活してくださった。私たちは強がっていた自分を悔い改め、懺悔する必要があるでしょう。
 懺悔というと何か悪いことをしてそれをわびている、という印象を持つかもしれません。しかし、それ以上に大切なのは、神の前で本当の自分に立ち返ること。それが懺悔です。仕事の上で、日常生活の上で、自分を大きく見せようとしていた仮面を外し、背伸びしていたことを報告し、「私は弱い人間です。あなた無くしては歩めません。このような私と共に歩んでください」と告白することが懺悔です。「あなたの前では無理しなくて良いのです」と安心を告白することもまた懺悔です。
 改めて、「安息」を受け止めていきましょう。安息日は本当の自分と向き合う日です。強い自分も、弱い自分も、全てが自分なのだということを改めて受け入れていく日です。そして、神の前に集い、心の底から解放され、心の底から救われ、そして新たな一週へと押し出されていく日でもあります。
 「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(ルカによる福音書6:9)
 安息日には、本当の意味で人間が生かされ、愛されていることを受け止めていくような働きがなされるべきであるし、なされていかなければならないのです。