同じ思いを抱く フィリピの信徒への手紙4章1-3節  2019年8月4日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 教会は人の集まりです。老若男女多くの人々が集められています。ですから、皆が皆、全く同じ考え方をしているわけではありません。一人一人違う人間としてここに集められている以上、様々な問題が発生することは当然のことと言えます。
 その問題にはいろいろあります。聖書を読む時間がない。信仰が足りない……。私たちは多くの問題に悩まされ、教会での生活を全うする自信がありません。その教会生活のつまずきの中でも、最も大きなものは、教会内での人間関係のつまずきでしょう。「あの人と同じ場所にいるのは嫌だ。」「あんな人が同じクリスチャンとは思えない。」耳を疑うような言葉が聞こえてくるのもまた事実です。まさに人間の集まりとしての教会の姿がここにあります。
  そして些細なことから始まった問題のその多くは、もはや修復不可能な関係のように思えるのです。
フィリピの信徒への手紙には、エボディアとシンティケという人物が、パウロやその他多くの弟子たち、キリスト者とともに、福音を告げ知らせる働きをしたと記されています。おそらく二人とも、熱心な信仰者であり、熱心な伝道者でした。その二人が、理由はよくわからないのですが、フィリピの教会内で対立し、互いに受け入れ合っていなかった。そしてその様子がパウロの耳に入りました。だから、ここでパウロは、二人の和解を勧めています。「すると、〝霊〟がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。」(使徒言行録11:12)
  「和解する」ことはとても難しいことです。人間は対立すると、つい相手ばかりが悪いように思ってしまいます。相手の行いが自分の行動を引き起こしたと言わんばかりに、相手を非難します。お互いがそのように思い、行動しますから、その繰り返しの中で対立はより深まり、関係の修復が難しくなっていきます。こうなってしまえば、解決する方法は数少なくなってしまうでしょう。喧嘩別れして、一方がその集団から出て行くか、一方が相手の言い分を認めて折れ、強者と弱者、勝者と敗者として集団に残るか、はたまた、お互いに妥協してなんとなくわだかまりをもったままになるか……。いずれにせよ、笑う者があり、泣く者があり、根本的な解決にはなりません。
 もちろんパウロもそのようなことはよくわかっていました。ですから、手紙の中にある「同じ思いを抱きなさい」というのは、妥協を勧める言葉ではありません。では、どのようにして二人の関係を改善しようというのでしょうか。
 パウロは、この手紙全体を通して、私たち人間とはどのような存在であるのかを語っています。あなたたち一人一人は、神によって新しく造られた人間なのだ、と。イエスの十字架を思い起こす時、その思いが新たにされる。私は神に愛され、生かされている人間だという確信が、この地上において生きる力となる。これまで多くの罪を犯し、神の前に立つことも赦されなかった人間が、イエスの十字架によって赦され、今一度、神と交わりをもつことができるようになった。この喜びこそが、人間の生きる力。私たちは神に赦された存在なのだ、と。
 そして、私が神に赦された、救われた存在であるのと同じ様に、隣人も、またその隣人も、神に救われた存在です。どうして、その救われた人間同士の関係が修復不可能といえるでしょうか。神はもはや不可能と思われた救いを与えられたのです。神は不可能を可能とする存在です。人間の思いを超えて、真の和解が与えられるのです。
 ですから、パウロの呼びかけ、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」(フィリピの信徒への手紙4:2)はこのように言い換えることができるでしょう。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。お互いを、主によって贖われた者として受け入れ合いなさい。尊敬をもって受け入れ合いなさい。その他の部分では違いがあるかも知れない。しかし、あなたたち一人一人は主に贖われた存在として、同じなのだ。そのことを忘れてはならない。」
 大切なのは、「主において」です。キリストの十字架を想う時、お互いの胸の内に主によって救われた自分が思い起こされます。人間的な思いではなく、その思いを遥かに超えて働かれる神の思いに生かされていること知ります。その時、人は自ずから、互いに受け入れ合うことのできる人間となっていくでしょう。無理矢理にそのように思いこむのではなく、自然と笑顔で相手を受け入れることができるようになります。そして、「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたイエスの言葉に生きることができるようになるのです。
 今はまだ難しいかも知れません。しかし、いつか必ずその日は来ます。
 アフリカにルワンダという小さな国があります。1994年、80万人とも100万人とも言われる大虐殺が起こったルワンダ。人口の9割以上がキリスト者であるこの国で、隣人が隣人を虐殺するという出来事は、もはや修復不可能なように思われていました。しかし、それから25年。「和解し続けている」人々がいます。一度きりの謝罪で赦しを与えて水に流すのではなく、毎日、毎日、真剣に相手と向き合いながら、赦し続けておられます。明日にはそれが裏切られてしまうかもしれないという不安もある中で、赦し、共に手を取り合い、共に働く。諦めることなく和解し続ける。この姿に、私はこの世界の未来を見ました。この地上の全ての人が同じ思いを胸に抱き、平和で柔和な世界がもたらされるその日は、必ずやってくるのだ、と。
 その日がいつ来るのか、それはわかりません。けれども、必ずその日は来ます。その日まで、神に感謝しつつ、私たちもまた、主において同じ思いを抱きながら歩んで参りましょう。その歩みこそが、主の平和を実現するのです。


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