「心してわたしに聞け」イザヤ51章4-11節  2017年12月3日礼拝説教  北村 裕樹牧師

 主イエス・キリストの降誕を待ち望むアドヴェントの時を過ごしています。通時的な歴史から見れば、イエスは二千年の昔、ただ一度この世にお生まれになりました。そのイエス・キリストの降誕をなぜ毎年待つのでしょうか。それは、歴史を共時的に見ることによって、「自分のこと」として受け取り直していくためです。イエス降誕の意味を繰り返し問い直し、新たに受け止め直すということに他なりません。そしてそれは同時に、「再び来る」という再臨の約束を思い起こす時でもあるのです。
 バビロンで補囚となっている民に向かって、預言者イザヤは希望の言葉を語り続けます。「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ」る(イザヤ書51:5)。救いの時は近い。そう宣言される神の言葉を伝えています。また、それと共に、「遠い昔の日々」(イザヤ書51:9)の主の救いの御業を思い起こして、救いの希望を確信せよ、とも語っています。
 イザヤは苦しみのただ中にある民の目を、神の恵みと約束に向けさせようとします。私たちも同じでしょう。今この時、苦しみに襲われているとすれば、どうしてもそこから目を離すことができません。頭も心もそのことでいっぱいになってしまいます。しかしイザヤは言います。過去において神はどれだけの恵みの業をなしてくださったか。また将来にどれだけの祝福の約束を与えてくださっているのか
 「教えはわたしのもとから出る」(イザヤ書51:4)
 徹頭徹尾、神に聞くしかありません。神が全ての源であり、神から離れては何も存在することができません。そんな基本的なことがわかっていながら、なぜできないのでしょうか。なぜ神に聞くことよりも、他者、隣人の言動の方が気になってしまうのでしょうか。
 神に逆らうこと。それは、神の御心を無視することです。神の思いを無視することです。違う角度から見れば、自分を中心に考え、自分本位の生き方をするということでしょう。それは、日常生活の上での「いい人」であるとか「悪い人」であるというのとは全く関係がありません。世間から見ればとてもいい人であっても神に逆らうでしょう。悪い人でも神に従うこともあります。私たちはそのどちらの面も持ち合わせています。自分の都合を押しつけてしまう時、自分ばかりを中心にしてしまう時もあれば、神の言葉に素直に聞き従う時もあります。どちらの割合が多いかと聞かれれば、言葉に詰まってしまうしかありません。
  目先のことに惑わされず、神の言葉に耳を傾ける。やはりそれが、神が人間に求めておられる生き方でしょう。
 しかし、神の前に正しいとされる生き方を頭ではわかっていても、その通りに行動できない人間の姿があります。正しいことを正しいと思えない人間の姿。また、正しいことを実行できない人間の姿。神の言葉に耳を傾けることができない人間の姿。聖書は神に逆らい続ける人間の姿をありのまま描き出しています。どれほど苦境に立たされたとしても、神に立ち返ろうとしない人間。そんな人間に、神は何度も呼びかけられます。 「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ」(イザヤ書51:4) 「わたしに聞け」(イザヤ書51:7)
 神は見捨てることなく、呼びかけてくださるのです。「心してわたしに聞け」と。
 この言葉は、岩波訳(岩波書店発行の聖書)では「傾聴せよ、わたしに」と訳されています。「傾聴」とは「聞きもらすまいとして熱心に聞くこと」(三省堂国語辞典)です。耳に入ってくる音をそのまま聞くだけではありません。「わたしに耳を向けよ」と言われるように、語る対象に耳を向けること。耳ばかりでなく、意識をそちらに向けること。文字通り、全身全霊で「聴く」ことを言います。
 このアドヴェント、そしてこのクリスマス、私たちは本当の意味で喜びを与えてくださるのは誰なのか、思い巡らせましょう。本当の意味で安心をくださるのは誰なのか、考えましょう。その方が私たちのために何をなしてくださったのか、どんな希望を備えてくださっているのか、しっかりと聖書から受け取り直していきましょう
 とはいえ、一人でその向き合うのは困難なこともあるでしょう。そのために、神は礼拝の時を備えてくださいました。礼拝は、改めて神と向き合う時であり、神の恵みを受け取り直す時です。一週間の初めに、自分がどのような存在なのかを再確認しましょう
 そして、聖書の言葉は、神の私たちへの語りかけです。遠い昔の人々に語られたばかりでなく、今、この時も神は私たちに語りかけておられます。その言葉に耳を傾けましょう。
 アドヴェントは神の暦が始まる期節です。この1年、まずは礼拝で語られる聖書の言葉を「心して聞く」=「傾聴する」ことから始めてみてはいかがでしょうか。


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